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七、三〇分ほどして、光一郎がむっくりと起き上がった。 「あー、暇だ!香奈、怪談でもするか。ちょうどロウソクの光もあるし」 「光ちゃん、これはロウソクじゃなくて、アロマキャンドルなんだけど」 「平たく言えばロウソクだろう。なあ、怪談しようってば。こんなにいいムードの場所は他にないぞ」 「嫌です。私、恐い話って大嫌いだもん。暗所恐怖症の、恐怖話恐怖症なの!」 「何だよ、根性ねぇな」 光一郎が笑顔を浮かべた。 「俺は好きだけどな、恐い話。幽霊がどうのこうのって部分よりも、その導入部分が好きなんだよ。なんかこう、絡み付いてくるようなドロドロの人間関係にドラマを感じるんだよな」 「光ちゃん、それって結構悪趣味だと思うよ」 「まあ、そう言うなって。最近はやりの『恐い話』ってのは味もそっけもないけど、昔からあるいわゆる『怪談』ってのには独特の味があると思うんだよ。文章力、構成力、そしてリアリティ。俺は一人の国語教師としてそういうものに惹かれてるんだ」 香奈は、少し冷たい目を光一郎に向けた。 「うまい事言うね、光ちゃん。なんだかものすごく胡散臭い話なのに、妙に説得力があるよ。さすが国語教師だね」 「いやぁ、そんなに誉めるなよ」 照れくさそうに、光一郎が笑った。 「まあ、俺の怪談好きは年季が違うからな。小さい頃から何冊も本を読んで丸暗記してたくらいだし」 「へー。変わった子供だったのね」 「まあな。で、昼間読むときは懐中電灯を持ち込んで押入れにこもるんだよ。これがなかなかスリリングでさ。あ、そう言えば一度、おまえも一緒に押入れに入った事があるんだぞ。覚えてないか?」 「……え?」 思わず、香奈は真剣な表情を浮かべた。 「それって、いつの話?」 「えーっと、確かおまえが三歳くらいの時だったかな。俺んちに遊びに来てたんだけど、その日、おまえにしてはめずらしくぐずってたんだよ。で、暗闇に行けば寝ちまうかなぁって思ってさ。おまえと二人で押入れにこもったんだよな」 「で、私、どうしてた?」 「ああ、怪談を聞かせたらすぐにおとなしくなったよ。身動き一つしないで俺の話に聞き入ってたな。あんまりおまえが熱心に聞いてるもんだから、俺も段々熱が入ってさ。あの時は我ながら迫力があったと思うよ、うん」 「そっか……」 何かを考えるように、香奈はそっと俯いた。 しばらくして、光一郎が香奈の顔を覗き込んだ。 「……どうした?急におとなしくなって」 光一郎から目を逸らしたままで、香奈は小さく呟いた。 「ねえ、光ちゃん。もしかしたらその時、私ものすごく恐がってたんじゃないかな」 「でもおまえ、泣きもせずにおとなしく聞いてたぞ」 「それは逆に、泣く事さえ出来なかったっていうか……」 光一郎が、眉を寄せた。 「……おい、それってもしかして」 顔を見合わせて、二人は同時に呟いた。 「トラウマ……?」 先に目を逸らしたのは香奈の方だった。 香奈は立ち上がり、キャンドルの前でしゃがみ込んだ。 「あらら、すっかり溶けちゃったね。夜まで持つかな、これ」 「……香奈」 光一郎の呟きを、香奈はわざと無視した。 「でも、いざとなったら眠っちゃえばいいから平気かな、うん。目を閉じればいいんだし、大丈夫だよね」 「香奈!」 光一郎が立ち上がり、思いつめたように香奈を見つめた。 「すまなかった!」 腰を折って深々と、光一郎が頭を下げた。 香奈は、静かに笑顔を浮かべた。 「光ちゃん、そんな事しないでよ。光ちゃんが原因だったかどうかなんて、分かんないんだし」 「……いや、俺が原因だってのが一番自然だろう。俺が……、おまえにトラウマを与えてしまったんだ」 「もしそうだったとしても、光ちゃんは悪くないよ。光ちゃんだってまだ子供だったんだもん。よかれと思ってしてくれた事なんだし、誰にも責められないよ」 「だけど、俺がした事でおまえはこんな歳になるまでずっと苦労してたんだ」 力なく、光一郎が座り込んだ。 「本当にすまん。申し訳ない」 「もう謝らないで。私、何とも思ってないから」 俯いたまま、光一郎が尋ねた。 「俺に出来る事があったら言ってくれ。何でもするから」 「やだなぁ、そんなに思いつめないでよ」 「いいから、頼む」 「ん……、そうだなぁ」 すがりつくような光一郎の言葉を受けて、香奈は困ったように頭をかいた。 「じゃあ、じいちゃんの代わり、してもらおうかな。私が恐くなったら、じいちゃんみたいに抱きしめてよ。そしたら私、暗闇でも平気でいられるから」 「……香奈」 光一郎が、香奈に目を向けた。 二人の視線がぶつかった。 「……なぁんてね」 立ち上がって、香奈は笑顔を浮かべた。 「冗談、冗談。本当に気にしないでよ、光ちゃん」 光一郎が無言で立ち上がった。それを見て、香奈は少し後ずさりした。 「あ、光ちゃん。そんな顔しないでよ。本当に気にしないでいいってば」 一歩近づいた光一郎が、香奈の両腕をつかんだ。 「あ、あの、光ちゃん。さっきのあれ、冗談だよ。だからあの、間に受けないでね」 「香奈……」 光一郎が、香奈をしっかりと抱きしめた。 しばらくして、香奈は小さく呟いた。 「ねえ、光ちゃん。お互いにもう子供じゃないんだよ。同情とか責任感でこういう事されても困るんだけど」 「……そんなんじゃねぇよ」 「じゃあ、どんなんなのよ?」 「自分でもよく分からん」 あっさりと、光一郎が答えた。 「でも、本当に同情でも責任感でもないよ。もっと深い、愛情っていうか……」 抱きしめたまま、光一郎がそっと香奈の頭を撫でた。 「俺をかばってくれてるおまえを見たら、急に胸が苦しくなったんだよ。なんか、昔からおまえ見てるとそういう気持ちになったんだよな。いつ見てもぼーっとしてて、何考えてるかさっぱり分からない。でも、気がつくと俺を見上げてじっと立っている。そういうおまえを見てると、側にいてやりたいなぁって気持ちになっちゃうんだよ」 光一郎の腕の中で、香奈は顔を上げた。 「……ねえ、光ちゃん。その説明って、よく分かんないんだけど」 「うーん。まあ、これから分かるんじゃないかな」 光一郎が、困ったように少し笑った。 「これからずっと、一緒にいれば」 そっと体を離して、光一郎が香奈の目を見つめた。 「ずっと一緒にいれば、な」 「……光ちゃん」 ふいに、光一郎が静かに香奈に顔を近づけた。香奈は体を硬くして、きつく目を閉じた。 いきなりがたっと音がして、光一郎が顔を上げた。 「なんだ、おい。誰かいんのか?」 「嘘!今まで全然気配なかったじゃない」 ささっと光一郎の背中に隠れて、香奈は倉庫の奥を覗き込んだ。 「ぶにゃぁおー」 猫の鳴き声が聞こえてきて、香奈はほっとしたように胸を撫で下ろした。 「……なんだ、猫かぁ。びっくりした」 眉をひそめながら、光一郎が香奈に目を向けた。 「ちょっと待て。なんでこんなところに猫がいるんだよ」 「ああ、窓から入って来たんじゃない?猫だったら鉄格子くらい余裕でくぐり抜けるだろうし」 「……あの猫でもか?」 「え?」 香奈は、光一郎が指した猫に目をやった。 「ぶにゃぁおー」 低音の泣き声を発した、一〇キロはありそうなデブ猫が、二人の横をすり抜けてマットの上に寝そべった。 複雑な表情で、香奈は頭をかいた。 「……あらー、これはまた迫力がある子ね」 「感心してる場合か!おい、本当にここの窓には鉄格子がついてるのか?」 「えー、あるはずなんだけどぉ」 二人はそれぞれ、用具を乗り越えながら窓に近づいた。 窓の外に、鉄格子の影はなかった。 「……ないじゃねぇか」 「えー、嘘だぁ。絶対あったってば!」 慌てて窓を大きく開け放し、香奈は背伸びをして窓の外を覗きこんだ。 「あ、鉄格子、下に落ちてる」 呟いて、香奈はそっと後ろを振り返った。 光一郎が、腕を組んで香奈を睨んでいた。 「……おい、香奈」 光一郎の顔をそっと見上げながら、香奈は笑顔を作った。 「えへっ!」 「だから『えへっ!』じゃねぇってば。どうしておまえはこう、やる事なす事間が抜けてるんだよ!」 「ちょっと待ってよ!これって私だけのミス?光ちゃんがちゃんと窓をチェックしてくれてたらこんな事にならなかったんじゃないの?」 「俺は、おまえの『鉄格子がある』って言葉を信じてたんだよ!」 「鉄格子は一応ちゃんとあったでしょ。私は間違ってないんだから!」 二人は睨みあった。が、やがて揃って目を離し、窓に向き直った。 「とにかく、ここを出るぞ。香奈、頼む」 「了解」 光一郎から鍵を受け取って、香奈は窓をよじ登り始めた。 ドアを開け放った倉庫の前で、二人は振り返った。 「忘れ物ないな。ちゃんとキャンドル持ったか?」 「うん、持った。光ちゃん、ライターは?」 「ちゃんと持ってるよ。じゃ、行くか」 「あ、光ちゃん。あの子どうする?」 「ああ、あいつはあのままでいいんじゃないか、寝てるだけみたいだし」 光一郎が、デブ猫に目を向けた。 「それに、俺達を助けてくれた事を思うと追い出す気にならないしな」 笑顔を浮かべながら、香奈は頷いた。 「そうだね。ありがとう、光ちゃん」 「なんでおまえがお礼言うんだよ」 光一郎が、少し笑った。 「おまえはあの猫の友達か?」 「うん、今日から友達になっておく。んじゃね、猫。また今度、遊びに来るよ」 「ぶにゃぁおー」 猫の鳴き声を背に、二人は倉庫を出て鍵を掛けた。 校門を出たところで、二人は足を止めた。 「香奈、遠慮すんなって。家まで送るぞ」 「ううん、大丈夫だってば。まだそんなに遅い時間じゃないもん」 「じゃあ、せめて駅まで一緒に行くよ」 「駄目だよ、光ちゃん」 笑顔を浮かべながら、香奈は首を振った。 「この辺りって学校関係の人がたくさん住んでるじゃない。せっかく今日見つからずに済んだのに、変な噂が立ったら困るでしょ」 「そりゃまあ、そうだけど」 「あとね、今から『香奈』と『光ちゃん』って呼び方は禁止。卒業までは『神崎』と『遠藤先生』って事にしておこうね」 「……そうか、そうだな」 光一郎が笑顔を浮かべた。 「じゃあな、神崎。気を付けて帰れよ」 「はーい、遠藤先生。じゃ、また明日ね」 明るく答えてから、香奈は光一郎に背を向けて歩き出した。 しばらくして、光一郎が香奈に声を掛けた。 「おい、神崎。ちょっと待った」 「え、なぁに?」 振り返って、香奈は大またで近づいてきた光一郎を見上げた。 光一郎が、香奈の頭に手を置いた。 「おまえが卒業したら、一緒に夏祭りに行こう。じいさんの神輿、見に行こうな」 こぼれそうな笑顔で、香奈は大きく頷いた。 「うん!絶対見に行こう。約束だからね、先生」 「任せとけ。手も繋いでやるからな」 「あと、綿菓子も買ってね」 「おう、分かった。だからな、神崎」 いきなり、光一郎が香奈を抱き寄せた。 「卒業まで、浮気すんじゃねぇぞ」 体を強張らせたまま答えられずにいる香奈を見つめた後、光一郎があっさりと手を離した。 「ま、この分じゃ心配する事ないか。じゃあな、神崎」 背中を向けて歩き出した光一郎の背中を、香奈はぼんやりと見つめていた。 しばらくして気を取り直した香奈は、掛け寄りながら手にしていた鞄で思いっきり光一郎のおしりを殴った。 「危ない、先生!アブラコウモリが!」 「痛っ!」 「あー、びっくりした。いきなり飛んで来るんだもん」 おしりを押さえた光一郎が、きょろきょろと空を見上げる香奈に尋ねた。 「ちょっと待て。何だよ、アブラコウモリって」 「えー、知らないのぉ?日本全国どこにでもいて自然の中よりも民家の軒下などに巣を持つ、あまり体の大きくないコウモリの事だよ。ちなみにまだ見た事がない人は、夜道を歩きながら丹念に空を見上げると見つけられるかも知れません」 「……おまえ、そういう雑学ばっかり覚えてる暇があるんなら、もっと国語の勉強しなさいね」 「でも私、どっちかっていうと理数系の人間なんだよねぇ」 光一郎が、何かを諦めたようにため息をついた。 「もういいから、早く帰りなさい。寄り道すんじゃないぞ」 「はーい、じゃあね、先生」 光一郎に笑顔を見せてから、香奈は背中を向けて歩き出した。 駅へと続く暗い道を歩きながら、香奈は空を見上げた。小さい星に混ざって、大きな満月が夜空を明るく照らしていた。 香奈はそっと胸に手を置いた。胸の中に、優しい炎が灯っているような気がした。 |
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