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四、



 高跳び用のマットを床に下ろして、二人は並んで腰を下ろした。

 軽くため息をついてから、光一郎が香奈に顔を向けた。

「なあ、香奈。おまえ、さっきは何がどうしたんだよ」

「え、何の事?」

「暗くなった途端に暴れて、ライターの火を見たら正気に戻っただろう。あれ、どういう事なんだ?」

「……ああ、あれね」

 香奈は、光一郎に目を向けた。

「私、暗所恐怖症みたいなんだ」

「暗所恐怖症?じゃあ、暗闇になるたびにああなるのか?」

「そうだよ。結構不便なのよね、色々と」

「だろうなぁ。夜寝る時なんか、どうしてるんだよ」

「蛍光灯に長い紐をつけて、ベッドの枕元にくくりつけてあるの。で、その紐をつかんだままベッドに横になって、きつく目を閉じて電気を消す。そのあとは、朝まで絶対に目を開けないの。トイレも我慢してるし」

「……そうか。おまえも苦労してるんだな」

 頭をかきながら、光一郎が立ち上がった。

「じゃあ、電気つけようか」

 光一郎の手をつかんで、香奈は首を振ってみせた。

「いいよ。窓から光が漏れたら誰かに見つかるかも知れないし」

「まあ、そうだけどな。でも、いつまでもライターつけてる訳にもいかないんだよ。あんまり油入ってないし」

「そっかぁ……。あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 鞄を探り始めた香奈は、やがて茶色い紙袋を取り出した。

「光ちゃん。これに火、つけてよ」

 笑顔を浮かべながら、香奈は手に持ったアロマキャンドルを差し出した。

「……おまえ、なんで学校にこんなもん持って来てるんだよ」

「昨日、学校帰りに買ったの。すっかり忘れて、そのまま持って来ちゃった」

 光一郎が、真面目くさった顔を作って見せた。

「おい、放課後に寄り道するのは校則で禁止されてるんだぞ」

 思わず、香奈は冷めた視線を光一郎に向けた。

「こんなところで生徒と二人っきりでいる人が何言ってるの?」

「……なるほど、一理ある。じゃあこれ、借りるぞ」

 大人しくしゃがみ込んで、光一郎がキャンドルに火をつけた。

 しばらくして、辺りに漂い始めた香りに気がついた光一郎が眉を寄せた。

「おい、香奈。なんだよ、この甘ったるい匂いは?」

「ラベンダーだよ。いい香りでしょ?」

「そりゃ、まあいい匂いだけどさ。なんかこう……、めちゃくちゃムーディーになってないか、この倉庫の中」

「え、ムーディー?」

 香奈は、改めて辺りを見渡してみた。

 いつの間に日が暮れたのか、窓から漏れてくる日の光はまったくなくなっていた。

 キャンドルが放つ、小さく、しかし暖かい光が、周りの用具の輪郭をゆらゆらと揺らしていた。

 用具はそれぞれ濃い影を背負い、その姿を別のものに見せかけている。

 体育用具室は、まるでくつろげる私的な一室の様な顔を浮かべていた。そして、二人を包み込む甘いラベンダーの香り……。

 思わず、香奈は一メートルほど光一郎から離れた。

「ちょっと、光ちゃん。いきなり襲い掛かったりしないでよ」

「大丈夫だよ。少なくても、おまえを襲うほどまでは飢えてないから」

「あ、そうですか」

 ちょっぴりすねたように、香奈は膝の上で頬杖をついた。

「まあ、光ちゃんってかなりかっこよくなったもんね。うちのクラスの子達なんて、みーんなファンになっちゃってるし」

「ああ、おまえ以外はな。他の子はしっかり俺の話を聞いてるのに、おまえだけいっつもぼんやりして、まるで聞いちゃいないよな」

「えー、そんな事ないよ。ちゃんと聞いてるって」

「じゃあ、明日提出するプリントが何か覚えてるか、おまえ」

「え」

 香奈は、そっと視線を逸らした。

「ああ、覚えてるよ。あれだよね」

「あれって何だよ」

「だから、あれでしょ?」

「だから、あれって何だよ」

 身を乗り出して来た光一郎の頭に手をやって、香奈はぷちっと二、三本の髪の毛を抜き取った。

「あ、光ちゃん、白髪!」

「痛っ!」

「あーあ、光ちゃんったらまだ若いのに白髪だなんて」

 指につかんだ髪の毛を、香奈はしげしげと眺めた。

「相当乱れた生活してんじゃないの?やぁね、大人って」

 左手で頭を押さえた光一郎が、香奈に右手を差し出した。

「……おい、その髪の毛、見せてみろ」

「え」

「『え』じゃねえよ。それ、俺には黒く見えるんだよ。貸してみろ」

 すばやく、香奈は指に息を吹きかけた。

「あ、ごめーん。どっか行っちゃった」

「…………てめぇって奴はよぉ」

「まあまあ、細かい事は気にしないで」

 睨み付ける光一郎にまったく動じず、香奈はおなかを押さえた。

「ところで光ちゃん、おなか空いたね。なんか食べる物持ってない?」

「ん?ああ、そう言えば俺、ここに来る前に売店に寄ったんだよな」

 光一郎が、ごそごそと鞄をあさった。

「食うか?蒸しチーズパン」

「あ、私これ、めちゃくちゃ好き」

「そうだったな。おまえ、よくこれ持って幸せそうに食ってたもんな」

 光一郎が笑顔を浮かべた。

「たぶん、最初におまえにこれを食べさせたのは俺だぞ」

「え?そうなの?」

 がさごそと袋を開けながら、光一郎が話を始めた。

「えーっと、あれは確か、俺が小学二年で、おまえが二歳の頃だったな。俺が縁側でおやつのこのパンを食べようとしてた時だ。おまえがいきなりふらふらーっと人んちの庭に入って来て、じーっと俺の手元を見るんだよ。で、俺は非常に食べにくい気分になった。仕方ないからパンを適当に半分にして、おまえに差し出したんだ。そうしたら、おまえは差し出してない方の手に持った、大きいパンをつかんだんだよ。俺は一瞬、ムカっとした。だけどな、パンを一口頬張ったおまえが、すんごい嬉しそうに二カーっと笑ったのを見て怒りが収まったんだ」

 光一郎が、適当にパンをちぎって差し出した。

「ほれ、半分」

 気まずそうに俯いたまま、香奈は小声で答えた。

「あの……、小さい方でいいよ」

「遠慮すんな、でかい方食え」

「……そう?ありがと」

 おずおずとパンを受け取って、香奈はそっと口に運んだ。

「美味しい……」

 ニカーっと笑顔を浮かべた香奈を見て、光一郎が嬉しそうに笑いながら香奈の頭に手を置いた。

「おまえ、変わってないなぁ。昔からどっかのんびりしてたっていうか、間が抜けたところがあったし。遊んでやっててもぼーっとしてて、喜んでんだか何だかちっとも分かんなかったんだぞ」

 パンを頬張ったまま、香奈は光一郎に顔を向けた。

「ふーん、そうだったの。自分の事はよく分からないな。あんまり記憶もないし」

「だろうな。なんせおまえ、あっさりと俺の事忘れてたくらいだし。ったく、裸と裸の付き合いだってのに冷たいよな、おまえは」

 いきなり、香奈は無言で光一郎の腕をつかんだ。

「……なんだよ、どうした?」

「……裸と裸の付き合いって、何?」

 香奈の真剣な眼差しを受け、光一郎が戸惑った表情を浮かべた。

「いや、俺はな、結構何度もおまえの事、風呂に入れてたんだよ。脇の下のほくろだってその時に発見した訳だし」

 光一郎の腕を放した香奈は、驚いた顔で呟いた。

「……信じられない。そういう事があったのに、どうして平気な顔でいられるの?あなたって人は」

「いや、だってガキの頃の話だし。五歳の頃の裸を見たからって、今更照れてもしょうがないだろう。つうか、平気な顔でいられない方が危なくないか?」

「そっか。そう言われてみれば、そうかも」

 頭を抱えて、香奈はぶつぶつと呟き始めた。

「いや、でも、やっぱり心穏やかではいられないような気が……」

 困ったような表情で、光一郎が頬をぽりぽりとかいた。

「そんなに気になるんなら忘れてやってもいいけどな、おまえのフルヌード」

「……ていうか、覚えてるわけ?」

「まあな。おまえって風呂が嫌いだったんだよ。で、泡だらけのまま、しょちゅう風呂場から逃げ出してさ。そのたびに俺は家中を追い掛け回したんだよ。あの姿は、ちょっと忘れられないものがあるんだよなぁ」

 懐かしく目を細める光一郎の首筋を、香奈は静かに両手でつかんだ。

「……光ちゃん、今すぐその記憶を頭から消し去って。じゃなきゃ私、何するか分からないからね」

「……分かった。分かったから、まずは落ち着け」

 光一郎が、香奈の体をそっと押し戻した。

「えっと、ちなみに全裸のおまえが庭のビニールプールで背泳ぎを楽しんでいた姿も覚えてるんだけど、やっぱり忘れた方が……」

 香奈のするどい視線を受け、光一郎が慌てて目を逸らした。

「忘れた。たった今、全て忘れた」

 大きな咳払いをしてから、香奈は話を変えた。

「でも、光ちゃんも中身は変わってないと思うよ、外見は全然違うけど。ねえ、いつからそんなにかっこよくなっちゃったの?」

「別にかっこよくはねぇだろう。このくらいのレベルなんて、その辺にごろごろいるぞ」

 あっさりと答えて、光一郎が言葉を続けた。

「まあでも、もて始めたのは高校に入ってからかな。一五歳頃、急激に背がでかくなったんだよ。で、バスケ部に入ったらやたらキャーキャー言われ始めてな」

「あら、そうですか。明るい思い出で羨ましいですわ。じゃあ、彼女なんか選びたい放題だったんじゃないの?」

「まあ、何人かと付き合ったりしたけど。でも最近は、そういう浮いた話もないなぁ」

「嘘だぁ。だって光ちゃん、今実家出て一人暮らしなんでしょ?たくさん女の子連れ込んでんじゃないの?」

 光一郎が、香奈をじっと見つめた。

「……おまえ、その言い方ってものすごく品がないぞ」

「……うん、我ながらそう思う。ちょっと反省」

 少し赤くなりつつ、香奈は呟いた。

「それはともかく、今でも相当もててるんじゃないの?」

 その場に足を投げ出しながら、光一郎が小さくため息をついた。

「なんか、面倒くさくてなぁ。新しい出会いを探して、好きになって。相手の気持ちを探って、駆け引きなんかをして。気持ちを伝えて、付き合い出して。信頼関係を一から作りあげていくっていう、そういうプロセスが」

「ふーん、大人な発言ね」

 香奈は複雑な表情を浮かべた。

「私にはそんなセリフ、とても言えないな」

 光一郎が、何気なく香奈に目を向けた。

「おまえ、付き合ってる奴いるのか?」

「……どう思う?」

「そうだなぁ。よし、実験だ」

 突然、光一郎が香奈の肩を抱いて強く引き寄せた。

 光一郎の腕の中で、香奈は体を強張らせた。その様子をしばらく見つめてから、光一郎がぱっと手を離した。

「いないな。男慣れしてない」

「……この、女ったらし!」

 自分に向けて振り上げられた香奈の手を受け止めて、光一郎が笑顔を見せた。

「まあ、おまえはどうみても奥手だからな。周りの友達が合コンとかやってても、付いて行ったりしない方だろう?」

 ふてくされたように、香奈は光一郎の手を振り払った。

「しないよ、そんなの。そういう出会い方って嫌いだから」

「別にいいじゃねぇか、合コンでも」

「嫌なの!私はね、毎日の生活の中で自然と好きになっていくってタイプなんだから」

「そういう事言ってる奴が女子校にいるって事自体、アウトだろう」

「……光ちゃんってさ」

 上目使いに、香奈は光一郎を睨み付けた。

「すごく効率よく人の怒りを誘うよね」

「そりゃ失礼」

 まったく悪びれず、光一郎がさらっと答えた。

「まあ、そのうちおまえにもぴったりの奴が現れるよ。ぼーっとしてるおまえを引っ張ってってくれる、しっかり者で気が利く奴がな」

 マットの上に寝っころがった光一郎が、ふと真面目な顔を香奈に向けた。

「ん?しっかり者で気が利く奴、か。それって俺そのものだな。どうだ、香奈。俺と付き合うか?」

 香奈は、光一郎の額を勢いよく引っ叩いた。

「あ!光ちゃん、蚊が!」

「痛っ!」

「あらら。こんな時期外れの蚊に狙われるなんて、光ちゃんったら運が悪いのねー」

 手の平をしげしげと眺めている香奈に、光一郎が手を伸ばした。

「……おい、その手を見せてみろ」

「え」

「『え』じゃねえってば!」

 すばやく手の平に息を吹きかけてから、香奈は光一郎に軽やかな笑顔を向けた。

「あ、ごめーん。どっか行っちゃった」

「…………もういい。俺は寝る!」

 ふてくされたようにマットにひっくり返り、光一郎が背中を向けた。

 香奈は余裕の表情で答えた。

「あ、そう。おやすみ。また蚊がいたら、退治しておいてあげるよ」 

 そして、二人の間に沈黙が走った。



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