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三、



 放課後。鞄を抱えた香奈は、校庭の外れにある体育倉庫に向かった。

 南京錠がすでに外されており、ドアは薄い隙間を空けていた。

「……お邪魔しまーす」

 香奈は、そっと中を覗き込んだ。

 広さは一〇畳くらいだろうか。広くはないスペースにたくさんの用具が詰め込まれている。二本の小さな蛍光灯が、白く弱い光を放っていた。

 ドアの反対側にある窓から、うっすらと光が差し込んでいるらしい。だがたくさんの用具に遮られ、その光はほんのわずかしか香奈の元に届いていなかった。

 中にいた光一郎が顔を上げた。

「おう、神崎。入ってくれ」

「はい……」

 足を踏み入れた香奈に、光一郎が再び声を掛けた。

「ドア、閉めてくれ」

「やっぱり、閉めなきゃ駄目?」

「開けてたら落ちつかないだろう」

「……はぁい」

 香奈はしぶしぶドアを閉めた。

 中の暗さが一層増した。そわそわと落ち着かない様子で、香奈は光一郎に顔を向けた。

「で、先生。話って何ですか?」

 光一郎が、静かな目で香奈を見つめた。

「おまえ、本当に何も覚えてないのか?」

「……どういう意味ですか?」

「あのな、神崎」

 手にしていた鞄を床に置き、りりしい表情を浮かべた光一郎が、つかつかと香奈に向かって歩み寄った。

「俺の顔をよーく見ろ」

 思わず後ずさりをして、香奈はドアに体をぶつけた。

「あの、さっきから見てますけど」

 香奈の一〇センチ先に顔を止め、光一郎が囁いた。

「何かこう、心の奥底からふつふつと温泉のように沸きあがってくる、熱い記憶はないのか、ん?」

 思わずしゃがみ込んで、香奈は光一郎のアップから逃れた。

「ないってば!なんなのよ、もう」

 大きくため息をついて、光一郎が背中を向けた。

「あくまでも、俺を覚えていないと言い張るつもりなのか」

「いや、だから。知らないんだってば」

「忘れたとは言わせないぞ」

「いや、だからね。忘れたとかじゃなくて、知らないんだってば」

 光一郎がくるりと振り返った。

「俺は、おまえの事ならなんでも知ってるんだぞ」

 恐る恐る、香奈は尋ねた。

「……何でも?」

「おう、何でもだ。神崎香奈、一七歳。現在は引っ越したが、一二年前まではこの近くに住んでいた。両親と腕のいい職人である祖父との四人家族だったが、祖父はすでに他界している。そして、そしてだ」

 光一郎が、香奈にするどい目を向けた。

「……おまえの右脇の下には、ほくろが三つ縦に並んでいる!」

 思わず、香奈は脇の下を左手で押さえた。その様子を見て、光一郎がふふふとニヒルに笑った。

「どうだ。図星だろう」

 倉庫のドアに手を掛けて、香奈は小さく呟いた。

「……先生って、もしかして変態?」

 光一郎が慌てて首を振った。

「違うっつーの!俺だよ、俺。遠藤光一郎、略して光ちゃん!」

「……光ちゃん?」

 香奈は大きく目を見開いた。

「光ちゃんって、引っ越す前に隣に住んでたあの光ちゃん?」

「そうだよ!てめぇ、五年間も俺に世話焼かせてたくせによく忘れてられたな。この薄情者が!」

 驚きの表情で、香奈は光一郎に駆け寄った。

「えー、だって光ちゃんって小学校の高学年だったのに、幼稚園行ってた私と同じくらいの背じゃなかったっけ?」

「そんなに低くなかったよ!」

「それに六つ違いだから、去年にはもう大学卒業してるはずでしょ?なんで今年から新任教師なのよ」

「就職浪人してたんだ!で、仕方なく今年は妥協してこの学校に就職したんだよ。じゃなかったら、こんな近場の、しかも女子校なんかに来ねぇよ」

 光一郎の肩に手を置いて、香奈は何度も頷いてみせた。

「そっかぁ。苦労したんだね、光ちゃん」

「しみじみと言わんでくれ」

 苦い顔で、光一郎が呟いた。

「ったく、俺は一目で分かったってのに。相変わらず薄情な奴だよな、おまえは」

「まあ、それは悪かったけど」

 照れくさそうに、香奈は頭をかいた。

「でも、始めから素直に教えてくれればよかったのに」

「いや、そりゃそうだけどさ。でも、お互いに嫌な思いしたままおまえんちが引っ越して行っただろう。だからちょっと気まずくてさ」

 目をぱちくりさせて、香奈は首を傾げた。

「嫌な思い?」

 光一郎が、じいっと香奈を見つめた。

「おまえ、まさかそれも覚えてないんじゃ……」

 途端に、香奈は目を泳がせた。

「え?いや、えっとぉ。……なんか、あったっけ?」

「……まあ、いいけどな」

 何かを諦めたような顔で、光一郎がため息をついた。

「俺とおまえが最後に顔を合わせたのは、おまえが五歳で俺が小学五年生だった年の夏祭り前日だったんだよ。場所は神社の社務所だ」

「ああ、社務所ね。懐かしいなぁ」

「で、あの日の夜、俺は一人で懐中電灯を持って社務所に忍び込んだんだ」

「え、なんで?」

「あそこに納めてある神輿を見たかったんだよ。次の日が待ちきれなくてな。俺、毎年担ぐの楽しみにしてたから」

「あ、そうなんだ」

 香奈は笑顔を浮かべた。

「で、社務所の中でほれぼれと神輿を見て、さて帰ろうと思って振り返ったら、いつ間にかおまえが背後に突っ立ってたんだ。俺は驚いて思わず力いっぱい叫んじまったんだよ」

「ふむふむ、それで?」

「しばらくして、神社の方から住職がやって来る足音が聞こえたんだ。で、俺は慌てて懐中電灯のスイッチを切ったんだよ。そしたらその途端におまえがものすごい声で泣き始めたんだ。慌てて抱き上げたら、おまえは大人しくなった。ほっとした瞬間に住職が灯りをつけたんだよ。俺は立ちすくんだまま動けなくなった。なのに、おまえって奴は……」

 光一郎が、再び香奈にするどい目を向けた。

「俺の手をすり抜け、住職の追求をかわしてとっとと逃げ出しやがったんだよ、一人で」

 光一郎の顔をそっと見上げてから、香奈は笑顔を作った。

「えへっ!」

「『えへっ!』じゃねぇよ!あのあと俺はものすごい勢いで怒られたんだぞ。しかもあの年は神輿担ぐ事まで禁止されたんだからな。おまえさえ背後に立ってなかったら、ばれずに済んだってのに」

「まあまあ、光ちゃん」

 香奈は、再び光一郎の肩に手を置いた。

「そんな事でいつまでも怒ってるなんて大人気ないよ。過去の事はきれいさっぱり忘れようよ。私のように」

「おまえは忘れ過ぎなんだよ!大体なぁ」

 言葉を続けた光一郎の口を、香奈はいきなり手で塞いだ。

「しっ!ちょっと黙って。誰かの声が聞こえない?」

「ふが?」

 二人が耳を澄ますと、倉庫の外から校長の声が聞こえてきた。

「それにしても、最近の教育の現場は乱れる一方だな」

「おっしゃる通りです」

 大きく相槌を打っているのは、教頭の声のようだった。

「校長、ご存知ですか?都内のS女子校で、男性教師と生徒の不純異性交遊が明るみに出たそうですよ」

「ああ、その話なら耳にしたよ。まったく、嘆かわしい事だな。学校側の監督不行き届きだ。私なら、そんなものは未然に処理するがね。少しでも疑いが見られる教師はすぐに処分すべきなんだよ」

「まったく、おっしゃる通りです」

 香奈は、光一郎を見上げて囁いた。

「光ちゃん、やばいんじゃないの?」

「『やばい』って、何が?」

「今の私達の状況。薄暗い体育倉庫で、若い男性教師と女子生徒が二人っきりで身を寄せ合ってるんだよ。怪しいとしか言いようがないと思うんだけど」

「……げ!」

 光一郎が、あたふたと辺りを見渡した。

「光ちゃん、こっちこっち」

 香奈の誘導で、二人は立てかけてあった高跳び用のマットの裏に座り込んだ。

 近づいて来た校長と教頭の足音が、ふいに止まった。

「ん?倉庫の鍵が外れてるな」

「あ、本当ですね」

 がらっとドアを開く音がして、中の二人は身をすくめた。

「なんだ、電気までつけっぱなしだ。生徒達によく言って聞かせないといかんな」

「ええ、まったく、おっしゃる通りです」

 教頭の相槌と共に電気が消された。

 その瞬間、香奈の体がぴくりと揺れた。

 香奈の変化に気がついた光一郎が、小声で囁いた。

「おい、どうした?」

 全身を震わせながら、ぽろぽろと涙をこぼし始めた香奈を見て、光一郎が慌てて香奈の肩に手を置いた。

「おい、香奈?」

 香奈が無言のままで光一郎の胸に飛び込んで来た。強くすがりつく香奈を腕に抱えながら、光一郎が戸惑った表情で呟いた。

「おいおい……。こりゃどう考えても言い逃れ出来ない状況じゃねぇかよ」

 いつの間にか、校長と教頭はドアを閉めて再び歩き始めていたらしい。遠ざかる会話が光一郎の耳に届いた。

「まったく、これだから毎日の見回りは欠かせないんだ。今度の全校集会で生徒に説教してやらんといかんな」

「ええ、本当に、まったく、おっしゃる通りですよ、校長先生」

 光一郎がほっとしたように息をつき、香奈から体を離した。

「ふぇー、危なかった。おい、大丈夫か?」

「…………恐い」

 香奈は小さく呟いた。

「……恐い、恐い、恐いー!」

 いきなり叫び始めた香奈の顔を、光一郎が覗き込んだ。

「おいおい、どうした?」

「恐い!暗いの恐い!暗いの嫌!」

「なんだよ、暗いの嫌って。子供じゃないんだから我慢しろ」

「やだやだ!恐い!」

「ちょ、ちょっと待てって。今、電気つけたらやばいだろう。窓から光が漏れて中にいるのがばれるぞ」

「やだー!もうやだー!」

「あー、もう!頼む、落ち着け!」

 ばたばたと暴れ出した香奈を、光一郎が再び抱きしめた。 光一郎の腕の中で、香奈は少し大人しくなった。

「ちょっと待ってろ。今、明るくするから」

 香奈を左手に抱えたまま、光一郎が右手で上着のポケットを探り、ライターを取り出した。

「ほら、これでどうだ?」

 光一郎の手の中で灯る火を、香奈はじっと見つめた。

「……火」

「そうだ、火だよ。明るいだろう。な、落ち着けって」

 ため息をついて、香奈は涙を拭いた。

「あー、恐かったぁ。……ん?」

 光一郎の胸を離れ、香奈は大きく跳び退った。

「ちょっと、光ちゃん!なんでこんなにくっついてんのよ、スケベ!」

「はあ?なんだよ、そりゃ。おまえから抱きついて来たんじゃねぇかよ」

 香奈は、きょとんとした顔で首を傾げた。

「あれ、そうだっけ?」

「……まあ、どうでもいいけどな」

 光一郎がため息をついた。

「とにかく、とっととここを出るぞ」

 立ち上がった光一郎が、ドアに歩み寄って手を掛けた。

「……ん?」

「どうしたの?光ちゃん」

「いや……。ちょっとこれ持ってろ」

 香奈にライターを手渡してから、光一郎が足元を踏みなおし、ドアに両手を掛けて力いっぱい引っ張った。しかしドアはびくともしない。

「……開かない」

「えー!どうしてよ?」

 困ったような顔で、光一郎が頭をかいた。

「たぶん、外から南京錠を掛けたんだろう」

「なぁにぃ?」

 厳しい表情で、香奈は光一郎の背中をばしっと叩いた。

「ちょっと、光ちゃん!どうしてくれるの、この状況」

「えっと。……あ、そうだ、窓から出よう!俺じゃでか過ぎて無理だけど、おまえならあの窓から出られるだろう」

「ここの窓って、鉄格子がはまってるんだけど」

「そうか。……じゃあ、とりあえず叫んで助けを呼ぶか?」

「駄目だよ、校長に見つかったら首になるかもよ。それに私だってただじゃ済まないんだから。他の手、考えてよ」

「他の手ねぇ……」

 光一郎が、真剣な表情で腕を組んだ。

「あ、そういえば今日の日直は竹田先生だ!竹田先生が最終巡回をしてる時に、窓から俺が持ってる鍵を渡して開けてもらおう。どうだ、俺って頭いいだろう?」

 香奈は、浮かない表情で光一郎の笑顔を見つめた。

「ねえ、その最終巡回って何時頃なの?」

「うーん、大体夜の一〇時頃だな」

「……ていう事は、それまでずっと光ちゃんとここにいなきゃいけないの?」

「……まあ、そういう事になるな」

 二人は思わず、揃って大きなため息をついた。



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