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雪の降る空の下

 二人が会社に着いた時には、もう日が暮れていた。倉庫の窓はすでに真っ暗で、シャッターもしっかりと閉め切られていた。

 二人は、ぽつんと明かりが灯っている小さな事務所のドアに向かった。

 先を歩いていた雪乃が、ドアを開けながら笑顔を浮かべた。

「ただいま帰りましたー!」

「お帰りなさーい、お疲れ様でした」

 睦実と美鶴が明るく迎えてくれた。

 ソファに腰掛けて息をついていた田辺に、睦実がお茶を出してくれた。

「どうだった?お得意様回り」

「いやぁ、なかなか楽しかったですよ」

 睦実に笑顔を向けた田辺は、軽く頭を下げつつお茶を受け取った。

「可愛いお店ばかりでしたけど、結構男でも楽しめましたし。俺、今度自分の家の近所にある雑貨屋を回ってみようかなぁ」

「あら、いいんじゃない、それ。すごく勉強になると思う」

 笑顔を交わした二人の背中に向かって、雪乃がえへんと咳払いをした。

「あのぉ、ちょっとお邪魔してもよろしいでしょうか?」

 振り返った睦実が、雪乃に顔を向けてにっこりと微笑んだ。

「これは社長、失礼しました。どうぞお話下さい」

 場所を譲って歩いて行く睦実を複雑な表情で見送った雪乃が、気を取り直したように田辺の背中に顔を向けた。

「えっと、田辺君。今日の仕事は全部終了です。初日から頑張ってくれてありがとね。お疲れ様でした」

 お茶を一口飲んでから、田辺は雪乃に背中を向けたままで答えた。

「ええ、まったく、本当に、心の底から、お疲れ様でした」

「……むむ。なんか感じ悪いぞー」

 ソファの横をすり抜けた雪乃が、田辺の前にしゃがみ込んで探るように顔を覗き込んだ。

「あのね、なんか言葉にとげを感じるんだけど気のせいかなぁ」

「気のせいですよ、社長」

 さらりとごまかながら、田辺は立ち上がって大きく伸びをした。

「じゃ、俺はこれで失礼しますね」

「あ、待って、田辺君」

 慌てて引きとめながら、雪乃が立ち上がった。

「今日これからあなたの歓迎会やりたいんだけど、どうかな?」

「歓迎会、ですか……?」

 田辺が呟いたのを聞きつけ、美鶴が雪乃の言葉に続けた。

「行きましょうよー、田辺さん。私達の通ってるお店を予約しておいたんです。なかなかいいとこですよ。料理も美味しいし」

「うーん、そうですねぇ……」

 何かを考えている様子の田辺に、睦実が声を掛けた。

「何か用事がある?突然誘ったわけだし、無理しないでいいのよ」

「いや、そうじゃないんですけどね」

 軽く首を振りながら、田辺は雪乃に顔を向けた。

「その歓迎会にはもしかして、あの倉庫にいた大量のパートさん達も……」

「ううん、あの人達は来ない。今日は社員だけで行くから」

 雪乃の答えを聞いて、田辺はほっとしたような表情を浮かべた。

「ああ、そうですか。では喜んで参加させて……、いや、待てよ」

 少し慌てたように胸ポケットに手を入れた田辺は、小銭入れを取り出した。

 ぱんぱんになってはいるが中身は全部一〇円玉であるその小銭入れを見つめ、田辺は何やら深く考え込み始めた。その田辺に、雪乃がそっと声を掛けた。

「……あの、ちなみに今日のお勘定は歓迎費って事で会社から出すからね」

「あ、そうなんですか?」

 急ににこやかになった田辺は、雪乃に明るい顔を向けた。

「では、喜んで参加させて頂きます」

「そう、よかった」

 田辺の様子に、雪乃がくすっと笑った。

 しばらくみんなで話をしたあと、雪乃が社長室に向かって歩き出した。

「じゃ、私着替えてくる。みんな、もう少し待っててね」

 帰り支度をしていた美鶴が、怪訝な顔を雪乃に向けた。

「え、わざわざ着替えるの?そのままでいいじゃない」

「駄目なの!これはお仕事服なんだから。プライベート服は別にあるんだもん」

 少し照れくさそうに言いながら、雪乃がぱたぱたと社長室に消えて行った。その雪乃の背中を見送りながら、美鶴が不思議そうに首を傾げた。

「変なのー。いつもそのままの服で帰るくせに」

 給湯室に向かいながら、睦実が意味ありげな笑みを浮かべた。

「たぶん、お洒落したとこを誰かに見せたいんじゃないのかなぁ」

「誰かにって……」

 呟いた美鶴が、ふと驚いたように田辺に眼を向けた。

「え、そうなの?うそー、気が付かなかった。へー、雪乃がねぇ」

 美鶴の眼を避けて顔を背けながら、田辺は困ったように頭をかいた。

 ふいに事務所のドアが開いて、門脇が顔を覗かせた。

「みんな揃ったのかな?そろそろお店に行く頃だと思って来たんだがね」

 ちょうど給湯室から戻って来た睦実が、少しぎこちない微笑みを浮かべながら頷いて見せた。

「ええ、もうすぐお店に向かいますよ。どうぞこちらで待っていてください」

 その近くにあるロッカーから私物を取り出していた美鶴が、門脇には眼もくれずに大きな音を立てて扉を閉めた。

 少し気まずくなった事務所で、四人は雪乃を待っていた。

 しばらくして、美鶴が机に頬杖をつきながら呟いた。

「遅いなぁ、雪乃。私、もうおなかぺこぺこだよー」

 社長室のドアを振り返りながら、睦実が首を傾げた。

「そうねぇ、ちょっと声掛けてみましょうか?」

「あ、じゃあ俺が見てみますよ」

 社長室に一番近いところに座っていた田辺は、自分から立ち上がった。

 三回軽くノックしたあと、田辺は何気なくノブを回した。

「社長、入りますよ」

「きゃー!」

 雪乃の声が社長室に響いた。驚いて足を止めた田辺の前で、雪乃が太ももを露わにしてストッキングを履いていた。

「ばか!エッチ!スケベ!変態!」

「し……、失礼しました!」

 座り込んでしまった雪乃を見て、田辺は大急ぎで後ろ手にドアを閉めた。

 しばらくして、少し顔を赤くした雪乃がようやく社長室から出てきた。雪乃の服装は、動きやすそうなパンツスーツから淡いピンクのワンピースに替わっていた。

 憮然とした表情を浮かべた雪乃が、上眼使いに田辺を睨んだ。

「ちょっと、ひどいじゃない。着替えを覗くなんて!このスケベ!」

 気まずい表情の田辺が、雪乃から眼を逸らしながら反論した。

「人聞きの悪い事言わないで下さい。俺はちゃんとノックしましたよ」

「ノックしても、返事を待たないでドア開けたら意味ないの!」

 全然引こうとしない雪乃に、田辺は思わず顔を向けた。

「あのね、着替えるんなら鍵くらいした方がいいですよ。女性として当然でしょう」

 一瞬田辺と眼が合った雪乃が、ますます赤くなりながら眼を逸らした。

「うちの社長室には、鍵なんて付いてないの!」

「物騒だなぁ。重要書類とか社印とか、その部屋の中に置いてあるんでしょ?」

「平気です!そういうのはちゃんと鍵付きの引き出しにしまってあるもん」

 美鶴が、二人の間に割って入った。

「まあまあ、二人共落ち着いて。今日は田辺さんが入社したっていうおめでたい日なんだし、喧嘩はやめましょうよー」

 雪乃がきりっとした眼を美鶴に向けた。

「だって、田辺君が私の着替えを」

「俺は別に、見たくて見たわけじゃないですよ」

「あー、よく言う!そういう事言ってると、お金取るよ」

 再び睨み合った二人の間に、門脇の冷たい声が割り込んだ。

「その口論は、まだ続くんですか」

 田辺は思わず門脇に眼を向けた。ソファから立ち上がりながら、門脇が二人の顔を見比べた。

「これ以上待たされるようなら、私はもう帰らせて頂きますがね」

 事務所内に、再び気まずい空気が流れた。

 その空気を破るように大きく咳ばらいをしてから、睦実が明るい笑顔でみんなを見渡した。

「遅くなっちゃったわね。さあ、そろそろ行きましょう」

 会社を出た五人は駅前の飲み屋街に向かった。街の景色を眼で追いながら、田辺は一行の後ろをゆっくりと歩いていた。

 美鶴と共に先頭を歩いていた雪乃がふと振り返った。田辺と眼が合って慌てて顔を逸らした雪乃が、やがて意を決したように足を止め、田辺の横に並んだ。そのまま二人は、しばらく黙ったままで歩いていた。

やがて、雪乃がきまり悪そうに俯きながら田辺に声を掛けた。

「あの……、さっきはごめんなさい。ちょっと恥ずかしかったもんだから、つい」

 少し笑顔を浮かべながら、田辺は雪乃に眼を向けた。

「いや、突然ドアを開けた俺が悪かったんですよ。すみませんでした」

「ううん。もう、いいの」

 ほっとしたように笑った雪乃が、久しぶりに田辺の眼を受け止めた。

「ところで田辺君、今日は本当にお疲れ様でした。ごめんね、初日からいろんなところに連れまわしちゃって」

 田辺は、笑顔のまま首を振った。

「いいえ、とんでもない。いろいろ勉強出来てありがたかったですよ」

「でも、疲れた顔してるよ」

「そうですか?まあ、ハードな一日でしたから。なんせ、今朝社長から電話が掛かって来た時、俺まだパジャマ着てましたからね」

 自分の頬をさすりながら冗談っぽく言った田辺に、雪乃が笑顔を返した。

「ごめんね、突然でびっくりしたでしょ。面接も、採用も」

「ええ、それはまあ、それなりに。だけど拾って頂いて感謝してます。あのままじゃ野垂れ死んでましたから」

 雪乃が小さく首を振った。

「ううん、私の方こそ引き受けてもらってすごく助かった。営業さんがいないと自分の仕事が全然出来なくて」

「そうか、今まで社長は営業を兼任してたんですよね。大変でしたね」

 いたわるような表情で顔を向けた田辺に、雪乃がにっこりと微笑んで見せた。

「ううん、私外回り好きだから。それに、私が頑張らなきゃみんなに迷惑掛けちゃうしね」

 明るい声で話す雪乃を見て、田辺の顔に少し優しい微笑みが浮かんだ。

 

 雪乃と美鶴のお薦めの店は小さな居酒屋だった。若い女性の客が多いこの店は、田辺がよく行っていた居酒屋と違って落ち着けるいい雰囲気があった。

 ビールとつまみが並んだところで、美鶴が全員を見渡した。

「みなさん、グラスの用意はよろしいでしょうか。それでは、我が社の社長から乾杯の挨拶を頂きます。雪乃社長、どうぞ!」

 みんなの注目を浴びた雪乃が、偉そうな表情を作って見せた。

「えへん。ではでは、僭越ながら乾杯の音頭をとらせて頂きます。みなさん、毎日のお仕事、お疲れ様です。おかげ様で経営も順調。北村事務所は乗りに乗っております」

 言葉を切った雪乃が、ふいに真面目な表情になって一人一人に眼を向けた。

「我が社は、みなさんの力で支えられております。本当に、そう思います」

 グラスを持ったまま深々と頭を下げた雪乃が、明るい声に戻って笑顔を浮かべた。

「今日、新しく田辺君に入社して頂けました。このメンバーとパートのみなさんで、これからも会社を盛り上げて行きましょうね。では、乾杯!」

 五人のグラスが、大きな音をたててぶつかった。

 とりとめのない世間話をするうちに、睦実が田辺の前職に話を振った。

「田辺君って、前も営業だったのよね。どんな会社だったの?」

 ジョッキをテーブルに下ろしながら、田辺は睦実に眼を向けた。

「俺のいた会社は、ボイラーを扱ってたんですよ」

「ボイラー、ねぇ。聞いた事あるけどよく分からないな。どんなものなの?」

「えっとですね。ボイラーっていうのは、すごく分かりやすく言うと、お湯を沸かす大きな釜みたいなものなんですよ」

 頬杖をつきながら田辺を見つめていた雪乃が口を挟んだ。

「でも、そんな大きなものだと注文ってそんなに多くなさそう。どういう風に営業するの?」

 枝豆をつまみながら、田辺は雪乃に視線を向けた。

「とにかく毎日、飛び込みでの新規開拓でした。もちろん何軒も追い出されるんですけど、たまに『今度店を出すから、おたくに頼もうか』なんて事になるんです」

 皿に残ったコロッケを取り上げていた美鶴が、田辺に顔を向けた。

「うわぁ、大変そう。でも、ちゃんと買ってくれるところが見つかるんだ」

「だけどね、そこで油断すると危険なんですよ。ボイラーを必要としてる人達の中には、水商売の方も結構いるんです」

「水商売って、どんな?」

「……まあ、いわゆる、お風呂関係ですか」

 田辺は少し口ごもったが、三人の女性はすぐに分かって頷いてくれた。

「そういうところが相手だとトラブルが起こりやすいんですよ。納品した後すぐに経営困難だとか、支払いをしてくれないだとかね」

「そういう場合は、どうするの?」

 首を傾げた雪乃に、田辺が笑顔を向けた。

「もちろん、返してくれって言いに行きますよ、事務所に直接」

「うわー、恐そう……」

 小さく呟いた雪乃に、田辺は少し笑って見せた。

「まあ、中には恐い人もいます。でも大抵の人は、素人の俺達に優しくしてくれますよ」

 言葉を切った田辺は、再びジョッキを口に運んだ。

 それまで黙って聞いていた門脇が、ふいに小さく鼻を鳴らした。

「君は随分と柄の悪い仕事をしてたんだね。そんな人が、うちみたいに可愛いものを扱う会社でやっていけるのかね」

 一瞬頭に血が上るのを感じながらも、田辺はなんとか平静を装った。

 そんな田辺をかばうように、雪乃が門脇にとがめるような視線を向けた。

「私は、田辺君のしていたお仕事はすごいと思います。それに、その経験をぜひうちの会社で生かしてほしいと思ってます」

「まあ、確かにある意味すごいと言えるかも知れないな」

 雪乃から視線を外しながら、門脇が声を立てて笑った。

「私みたいな普通の人間には、とても真似出来ないよ」

 眉をひそめた雪乃が、少し口調を強めて門脇に向かった。

「門脇さん、そんな言い方しないで下さい。せっかくみんなで楽しくお話してるのに」

 門脇が、雪乃に向かってすまなそうな顔を作って見せた。

「ああ、これは失礼しました。私はこんな言い方しかできない人間でね。やっぱり、私はお邪魔だったかな」

 その言葉を聞いて、誰もが無言で視線を外した。

 さすがに気まずく感じたらしく、少ししてから門脇が店を出て行った。

 門脇の姿が消えた途端、美鶴が勢いよくテーブルに突っ伏した。

「あー、もう最低。だからあの人呼ぶの嫌だったんだ。いっつもあんな感じなんだもん」

 少しほっとした表情を浮かべながら、睦実が小さくため息をついた。

「でも、誘わないわけにいかないしね。あの人も社員なんだし」

 美鶴が、ふてくされたように頬杖をついた。

「そりゃそうですけどぉ。でも、はっきり言ってうっとうしいんですよね、あの人」

 美鶴の言葉に、雪乃が困ったような表情を浮かべた。

「まあまあ、美鶴。そう言わないでよ。なんだかんだ言って、門脇さんはうちの会社に必要な人なんだから」

 睦実が、グラスを小さく揺らしながら頷いた。

「そうね、門脇さんは商品を選ぶ眼がしっかりしてるから」

 睦実に顔を向けながら、田辺は口を挟んだ。

「門脇さんは、そんなに目利きなんですか」

「ええ、あの人が自信を持って押さえた商品は大抵当たるのよ」

「へー、そうなんですか……」

 呟きながら、田辺は少し複雑な表情を浮かべた。

 ふいに、美鶴が雪乃に向かって真剣な顔を向けた。

「雪乃、気をつけなよ。あの人、絶対雪乃に気があるんだから」

「……やだなぁ、美鶴。何言い出すの?」

 少し動揺を見せながら、雪乃が美鶴の言葉に首を振った。

「気のせいだって。絶対そんな事ないよ」

「本当だってば。だって、あの人しょっちゅう私に雪乃の事、聞いてくるもん」

 その言葉を聞いて、雪乃が美鶴に意地悪な顔を向けた。

「ねえ、それってもしかして、私の事聞くのは口実で、本当は美鶴に話し掛けたいんじゃないのかな」

「げ!やめてよ、あんな奴。私、面食いなんだからね」

 激しく首を振る美鶴を見て、睦実が口を挟んだ。

「美鶴は理想が高過ぎなの。そんなんじゃ、いつまで経っても結婚出来ないわよ」

 睦実の言葉に、美鶴が頬をふくらませて見せた。

「ちょっと、睦実さん!自分の事棚に上げてよくそういう事言いますね」

「私はいいの。仕事に生きる女なんだから」

 雪乃が少し笑いながら、睦実の腕を肘でつついた。

「そういう事言ってる人ほど、影で抜け駆けしてたりするんですよねぇ」 

 三人の話は、そのまま恋愛関係に流れて行った。

 話を聞きながら、田辺は閉じかけているまぶたを必死で持ち上げていた。恐らく、帰ったら即ベッドに倒れこむ事になるだろう。そんな生活がこれからしばらく続きそうだ。

 あの大型テレビがますます無駄になる。そう思うと、田辺はなんだか少し切ない気持ちになった。 



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