事務所に戻った田辺を見て、雪乃が立ち上がった。
「おかえりなさい。どうだった、倉庫は?」
雪乃の側に歩み寄りながら、田辺は笑顔を浮かべた。
「なかなか面白かったです。取扱商品も確認出来ましたし、みなさんに売れ筋なんかも教えてもらいました。すごく勉強になりましたよ」
「そう、よかった」
雪乃が少し安心したように息をついた。
「これからも一日に一回は倉庫に行ってみてね。この業界ってブームに流されまくってるから、すぐに新しいものが入ってくるの」
「なるほど、分かりました」
頷いた田辺に、雪乃が笑顔を向けた。
「じゃあ、そろそろ外回りに行きましょう。確か免許持ってたよね。運転お願いしてもいいかな?」
田辺はポケットの免許を確認しながら答えた。
「ええ、いいですよ」
「ありがとう、すごく助かる。お得意様の店っていろんなところに点々としてるから、電車で行くのは結構大変なの」
雪乃の言葉を聞きつけた美鶴が、電卓を叩く手を止めて顔を上げた。
「いいなぁ、二人でドライブに行くんだ。私も行きたいなぁ」
雪乃がきりっとした眼を美鶴に向けた。
「ドライブじゃありません、営業です。言っとくけど、外回りって結構大変なのよ。気を使うし、紫外線浴びるし。ストレスと日焼けで、私のお肌はもうぼろぼろよ」
美鶴が軽くふくれて見せた。
「なによー、嘘ばっかり。大したお手入れしてないのに、いつもつるんつるんの肌してるじゃない」
ぼんやりとしている田辺を見かねたように、睦実が雪乃に声を掛けた。
「社長、田辺君が退屈してますよ。経理とのミーティングはそのくらいにして、早く営業に連れて行ってあげてください」
雪乃が、慌てた様子で田辺に眼を戻した。
「あ、ごめんなさい。じゃあ今、車まで案内するね」
あたふたと事務所を出て行く雪乃の後ろ姿を確認した睦実が、田辺に向かってこっそりと話し掛けた。
「あのね、田辺君。多分、社長の営業はあまり参考にならないと思うの。だから今日は、とりあえずお得意様のお店の雰囲気を楽しんで来てね」
田辺は、少しふてくされたような表情で睦実に眼を向けた。
「またそうやって気になる事を言い出すんだから。一体なんなんですか、今度は?」
睦実の答えを聞く前に、雪乃が事務所を覗きこんだ。
「田辺君、何してるの?早いとこ車出して下さーい」
雪乃に促され、田辺は慌てて事務所を出た。
「行ってらっしゃーい」
二人の背中に、事務所から声が掛けられた。
高速に乗ってから、田辺は雪乃に尋ねた。
「社長は、免許持ってないんですか」
「うん、ほしかったんだけど、時間が全然なかったの」
雪乃が、バッグに入っているカタログを整理しながら答えた。
「一八の頃はいっつも赤点ぎりぎりで余裕がなかったし、大学に入ってからはやっぱり卒業ぎりぎりでレポートに追われてたの。で、やっと卒業できたと思ったら今度は先代が亡くなったでしょ。免許どころじゃなくって」
「就職活動はしたんですか?」
「ううん。もともと卒業したら、うちの仕事を手伝うつもりだったから。美鶴と睦実さんもいるし、先代とも毎日一緒にいられるし、すごく楽しみにしてたんだけどなぁ」
カタログから眼を離して、雪乃が軽くため息をついた。
「先代はね、お酒が好きで毎日飲んでたの。で、内臓を悪くしてあっけなく」
雪乃の答えを聞いて、田辺は話題を変えてみた。
「一緒に会社を見てくれる親戚はいないんですか?」
「うん。先代は一人っ子だし、祖父母はもう亡くなってたから。母方の親戚はいるけど……」
急に言葉を切った雪乃が、窓の外に眼を向けた。
「……母を含めて、あっちの親戚にはもう随分会ってないの」
その言い方だけで、雪乃の中にある複雑な思いが田辺にもなんとなく伝わって来た。
少し暗くなった車内の空気を変えるように、雪乃が明るい声で話を続けた。
「でも、なんだかんだ言ってここまで順調に来られたんだし、私の社長ぶりも優秀って感じよね。それに、頼もしい営業主任も入社してくれたし。これで我が社も安泰ね」
「え?ちょっと待って下さい」
田辺はちらりと雪乃に眼を走らせた。
「営業主任ってなんですか。俺、聞いてませんよ」
「うん、だって言わなかったもん。でもうちの営業って田辺君だけだし、自動的に主任になるわけよ」
「じゃあ、もうこれ以上営業を入れないんですか?」
「当たりでしょ。うちにはそんな余裕ありません。いいじゃない。主任手当て付けてあげたんだから」
「……主任手当てってもしかして、雑誌にあった給料に上乗せしたあれですか?」
前方に眼を向けたまま、田辺は不満げな声を上げた。
「ずるいなー、社長。それを先に言ってくださいよ。そしたら俺、速攻で断ったのに」
田辺の苦情を、雪乃が余裕の表情で受け止めた。
「あらそう?じゃあ、今なら特別に田辺君の言う事聞いてあげる。このまま一人で主任として頑張るか、給料カットしてもう一人営業を入れるか、このまま車を降りて会社を去るか。さあ、どうする?」
「……本当に、この場で車降りてやろうかな」
呟いた後しばらく考え込んでいた田辺は、やがて諦めたように深く息を吐き出した。
「分かりました。やりゃぁいいんでしょ、やりゃあ。もうこの際、主任でも何でもやりますよ」
「そうそう、そうこなくっちゃ。男は諦めが肝心よ」
けろっとした顔で答える雪乃に歯向かう気力は、田辺にはすでになかった。
二人を乗せた車は、とあるショッピングセンターで止められた。
「よーし、到着。まず一軒目は、ここにある雑貨屋さんなの。可愛い小物がいっぱいあるから、ここ好きなんだぁ」
車を降りた雪乃が、にこにことしながら通用口に足を向けた。
五分後、田辺は身の置き所に困っていた。
そこは、これまで田辺が踏み込んだ事のないような可愛いお店だった。学校帰りなのだろうか、制服姿の少女達の集団が、居心地が悪くてそわそわしている田辺にうさんくさそうな視線を向けていた。
まっすぐ店の奥に向かった雪乃が、レジ台の中を覗き込んだ。
「お世話になっております。北村事務所でーす。店長、景気はいかかですか?」
「あら、いらっしゃい。こちらこそお世話になってます」
呼びかけられた店長らしき女性が、レジをもう一人に任せて雪乃の方に歩み寄った。
「景気は、あんまり良くないよ。でも、やっぱり可愛いものはどんどん売れてるね。特に若社長のところから入れた奴は動きが速いから助かってる」
雪乃が、何度も頷きながらバッグに手を入れた。
「そうでしょうとも。うちはいい物揃えてますからね。まあ、この自慢のカタログを見て下さい」
雪乃が次々と取り出すそのカタログは、商品の写真をカラーコピーしたものだった。後ろから覗き込んだ田辺は、その写真の中に倉庫にあった商品をいくつか見つけた。
今にも商談に入りそうな雪乃を制するように、店長が田辺に顔を向けた。
「その前に、今日はこちらの方を紹介してくれるんじゃないの?」
「あ、そうでしたそうでした」
慌てて振り返った雪乃が、田辺の腕を取って引き寄せた。
「じゃーん!我が社期待の新人営業主任でーす。ものすごい数の入社希望者の中から見事一人だけ選ばれたエリートですのよ。おほほほほ」
調子のいい事を言う雪乃を軽く睨んでから、田辺は店長に頭を下げた。
「田辺と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
軽く頭を下げてから、店長が笑顔を浮かべた。
「たぶんこの若社長の下だといろいろ苦労するだろうから、うちには気晴らしのつもりで顔出して」
店長の言葉に、雪乃がふくれた顔を見せた。
「失礼ねー、店長。私の下だとどうして苦労するの?」
「あなたの場合は、自覚してないところが問題なの。どうせ田辺さんを採用した時も、気合で即決したりしたんでしょう」
二人の横で、田辺は大きく何度も頷いた。
「ええ、そうなんです。この人、たった一分間しか考えないで採用を決めてました」
田辺の言葉に、店長が声を立てて笑った。
「やっぱり?この人ってね、商品の話する時も『気合で』とか『フィーリングで』とか、そんなんばっかりなんだもん。説得力が全然ないの」
雪乃が、少しすねたような顔を店長に向けた。
「いいじゃないですかぁ、それで売れてるんだから」
笑顔を浮かべたまま、店長が雪乃に頷いて見せた。
「まあね。確かに、若社長の気合に押されて仕入れた商品はよく売れてる。それも一つの才能だとは思うけど」
その言葉を聞いて、雪乃があっさりと笑顔を浮かべた。
「でしょでしょ?よーし、じゃあ今日もいつも通り、気合とフィーリングで、ちゃちゃっと商談しましょうか。田辺君、私のセールストークをしっかり聞いててね。なんなら技を盗んでもいいのよ」
「はあ……」
なんとなく頷いてから、田辺は眼の前で始まった二人の商談に耳を澄ませてみた。
カタログをめくっていた店長が、一枚の写真を指差した。
「ねえ、これってどう?売れるかなぁ」
雪乃がカタログを覗き込みながら頭をかいた。
「んー、どうだろう。でもこれ、私のフィーリングにぴったり。すっごく可愛いからたぶん行けますよー。気合入れて、ばしっと入荷しちゃいましょう、店長」
それを聞いていた田辺は、すぐに技を盗む事を諦めた。
暇になった田辺は、店内を見て回る事にした。
大分慣れてくると、こういう可愛い店もなかなか楽しい。色とりどりの商品に囲まれていると、女の子でなくても何故か気持ちが明るくなってくる。店の雰囲気に馴染んでくると、周りの少女達も田辺を気にしなくなっていた。
田辺は、眼に付くものを次々と手に取っていった。中には凝った仕掛けの玩具があったりしてなかなか面白い。
トーキング仕様のぬいぐるみを喋らせたり、ぜんまい仕掛けのおもちゃを歩かせたりしていた田辺は、店の入り口近くに特設コーナーがある事に気がついた。
そこにあったぬいぐるみを手に取った田辺は、縦にしたり横にしたりしながらじっくりと観察してみた。
いつの間にか側に来ていた雪乃と店長が、田辺の手にあるぬいぐるみを覗き込んだ。
真剣な顔でぬいぐるみを眺めている田辺をおもしろそうに見ながら、店長が説明してくれた。
「それはね、子供向けのアニメの主人公なの。すごく人気があったんだけど、最近ちょっと出足が遅くなってきたのよね。で、目立つ場所にコーナー作ってみたの」
キャラクターが大きく載っているマグカップを手に取りながら、雪乃が少し寂しそうな表情を浮かべた。
「そっかぁ、もうこの子の時代も終わりなのね。子供ってすぐ飽きるからなぁ」
雪乃に眼を向けながら、店長が頷いて見せた。
「確かに、最近ってブームが終わるの早いよね。でも、このアニメってもうすぐ海外で放送するらしいよ。もしかしたらあっちで人気が出るかもね」
二人の話を耳にしていた田辺は、やがて諦めたように顔を上げた。
「……あの、これって一体なんのキャラクターなんですか?どう考えても分からないんですよね」
田辺の手にあるそのぬいぐるみは、全体的に薄茶色をしていた。
表面はわざとごつごつとしたクレーターのような縫い方になっており、形としては楕円に近い。楕円形の、横に長い部分に細長い手が付いている。下側にも同じようにある細長い足が、大きな靴を履いていた。楕円形の中央には、横向きに開くファスナーが付いている。そこを口とした形で少し上の方にまん丸の眼がくっついており、中にある黒目の部分がくるくると動くようになっていた。
店長が田辺に眼を向けた。
「それはね、『じゃがらむ』っていうの。外側の部分は、じゃがいもをイメージしてるのよ」
田辺は納得したように軽く頷いて見せた。
「ああ、なるほど。だから『じゃが』なんですね。で、『らむ』の方は?」
田辺の視線を受けて、雪乃が笑顔を浮かべた。
「それはね……。田辺君、ちょっとそれ貸して」
じゃがらむを受け取った雪乃が、真中のファスナーを大きく開いてから田辺の方に差し出した。
「じゃーん!こういうわけなのです」
期待を込めた様子で覗き込んだ田辺は、すぐに脱力したように肩を落とした。それに気がつかず、雪乃がにこにこしながらじゃがらむの口をパクパクさせて見せた。
「口の中が、ライムの輪切りみたいな柄になってるのよね。結構可愛いよね、これって」
しばらく肩を落としていた田辺は、なんとなく力が抜けたような表情でじゃがらむに眼を戻した。
「……可愛いとか言う前に、めちゃくちゃ子供だましじゃないですか、これ」
雪乃が、田辺に向かって少しふくれて見せた。
「いいのー、ファンになってくれるのはお子ちゃまなんだから。ほら、もっとよく見てよ。段々可愛いような気持ちになってくるよ、きっと」
雪乃から返されたじゃがらむと向き合いながら、田辺は情けない表情を浮かべた。
「何度見ても力が抜ける顔してるなぁ、こいつ」
田辺の様子を見ていた店長が、声を出して笑い出した。
「そんな顔しないで。大丈夫よ、田辺さんもすぐにこのファンシーな世界に馴染んで、好きなキャラクターが見つかったりするから」
「……はあ、頑張って早く馴染めるようにします」
健気に答えながらも、ぬいぐるみを抱えながらにこにこしている自分の姿を想像した田辺は、なんだか少し悲しくなってしまった。