雪乃が出て行ってから一〇分後、田辺は多少よろめきながら部屋を出た。
すらっとした女性が、机に頬杖をついたまま田辺に眼を向けた。
「あら、やっと現れたのね。あまりにも出て来ないから迎えに行こうかと思っちゃった」
立ち上がりながら、女性がにっこりと笑った。
「私、岡倉睦実です。この会社では、私一人で総務をやってるの。分からない事があったらなんでも訊いて。結構古株だから、大体答えられると思う。よろしくね」
とても落ち着いた雰囲気を持つ女性だった。
さっきは束ねてあった黒髪が下ろされていて、睦実の動きにあわせてさらさらと水のように揺れていた。
睦実の穏やかな眼を見て、田辺は少し気を取り直す事が出来た。
「田辺将弘です。たった今、営業で雇われる事が、あっという間に決まりました。よろしくお願いします」
「たった今、あっという間に、ね」
田辺の言葉に、睦実がくすっと笑った。
「あなたが事務所に入って来た時、たぶん決まると思ってた。あの子ってね、面接の電話する時に、実際掛かる時間より短い時間を指示するの。それで遅れた人は、失格」
「ああ、そう言えば俺、随分走りましたよ」
「でしょ?あの子なりにこだわりがあるみたいなんだけど、それが何かは訊いた事がないの。なんか、すごい事言われそうで恐いし」
「確かに、それはありますね」
大きく呟いた田辺の顔を、睦実がいたずらっぽく覗き込んだ。
「それにね、もう一つあなたが採用される気がした理由があるの。何だと思う?」
睦実の表情を見ながら、田辺は恐る恐る尋ねた。
「……なんなんですか?」
「あなたってね、先代の社長にどことなーく似てるのよ」
答えを聞いてからしばらく睦実を見つめていた田辺は、やがて困ったような表情を浮かべた。
「……すみません、おっしゃる意味がさっぱり分からないんですが」
真剣に分かっていない様子の田辺を見て、睦実が再びくすっと笑った。
「そうよね、ごめんなさい。今説明するわ。ねえ、あなたの分もお弁当買ってきたの。良かったら一緒に食べない?」
睦実が弁当を差し出しながら、事務所の片隅の応接セットを示した。
「ああ、ありがとうございます。そういえば、結構腹減ってます」
素直にソファに座りながら、少し余裕が戻って来た田辺は睦実に笑顔を向けた。
「弁当代、明日お返しします。たぶん全部一〇円玉だと思いますが、勘弁して下さい」
睦実が説明してくれた会社の事情は、なかなか興味深いものだった。
先代の社長、北村光一郎は一年前に他界した。その悲しみから立ち直る暇もなく、雪乃はその後を継いだ。当時二二歳だった。
「じゃあ、まだ二三歳なわけですか?どうりで若いと思った」
納得したような表情の田辺に、睦実が頷いて見せた。
「それにあの子童顔だしね。あの子が社長って知ると、大抵の人がびっくりするの」
「そうでしょうねぇ。俺だって、最初はどこの中学生が座ってんだかって思っちゃいましたよ」
思わずさらりと言ってしまってから、田辺は睦実に眼を走らせた。
「あ、……失礼しました」
「いいえ。まあ、とりあえずは聞かなかった事にしてあげる」
澄ました顔で答えてから、睦実が田辺に眼を向けた。
「で、さっきの話なんだけど。先代に似ている田辺君を見て、どうして採用だって分かったと思う?」
箸を操る手を止めて、田辺は顔を上げた。
「それがですねぇ、さっきから考えてるんですけどさっぱり分からないんですよ」
「ふーん、そっか。これが分からないって事は、田辺君ってあんまり女心にするどくないのね」
「……なんですか、その意味深な言葉は」
からかうような表情をしていた睦実が、田辺に笑顔を向けた。
「あの子ってすっごいファザコンだったの。それが理由」
答えを聞いた田辺は、再び箸を動かし始めた。
「……なんか俺、段々悲しくなってきました。今まで聞いた採用理由も結構あほらしかったし」
「あら、そうなの?」
ちょっと申し訳なさそうな表情を浮かべながら、睦実が田辺の顔を覗き込んだ。
「もしよかったら、他の理由っていうのを教えてくれない?」
田辺は、社長室で聞いた三つの採用理由を睦実に話して聞かせた。
「ふーん、なるほどねぇ」
真剣な顔で話を聞いていた睦実が、机の上にあるお茶に手を伸ばした。
「雪乃らしい選択肢ね。でもまあ、確かに田辺君としては、へこむ部分があるかも」
「いや、まあ別にいいんですけどねぇ」
少し投げやりな顔をしている田辺を困ったように見ていた睦実が、ふと何かに気がついたような表情を浮かべた。
「あ、そういえば、すごく重要な理由があった」
空になった弁当箱を机に置きながら、田辺は諦め顔で背もたれに寄りかかった。
「本当に重要なんですか?」
「うん、ものすごく重要よ」
睦実が田辺に真面目な顔を作って見せた。
「なにしろ、この一年の間に三人も営業が辞めたんだもの。絶対に辞めそうにない人がほしいのよ、うちは」
「三人?」
田辺は、思わず勢いよく体を起こした。
「原因はなんなんですか?」
「うーんとね、まあいろいろなんだけど」
思い出すような表情で、睦実が指折り数え始めた。
「まず、一人目は古くからいた営業さん。先代が亡くなった時に、会社の将来が不安になったみたいで辞めたの。で、次の人は、雪乃の場当たり的な社長ぶりに驚いて辞めたのね。それで最後の人は、社内の人間関係に困り果てて辞めた、と。まあそんなところかな」
睦実の話を聞き終えた田辺は、床に眼を落としながら呟いた。
「……俺、このまま逃げたら不採用にしてもらえますかね」
慰めるような笑顔を向けながら、睦実が田辺の湯飲みにお茶をついだ。
「まあまあ、そう言わないで。あなたは大丈夫でしょ、人当たり良さそうだし。それに、あれでも雪乃は随分落ち着いたのよ。少しは社長業も板に付いてきたしね」
「そうですかねぇ」
ため息をつきながらお茶を飲んでいた田辺が、ふと睦実に眼を向けた。
「あ、ところで、さっきから社長の事名前で呼んでますけど、どうしてなんですか?」
「ああ、ごめんね。出来るだけ社長って呼ぼうとしてるんだけど、いまいち慣れなくて。私、あの子が高校生の頃から知ってるのよ」
空になった二人分の弁当箱をまとめながら、睦実が答えた。
「私、短大を卒業してからここに入社したの。その時、雪乃は十五歳だった。先代が大好きだったあの子は、しょっちゅう事務所に遊びに来てたのね。それで、私の事を姉みたいに慕ってくれていたのよ」
「へー、そうだったんですか……」
話を聞きながら密かに計算していた田辺は、睦実が年上の人と知って、なんとなく納得した。
「社長が亡くなってから、会社は随分混乱したの。何回か苦しい状況もあったけど、私はどうしてもここを辞める気になれなかった。雪乃の事が心配だったし、先代にはすごくお世話になってたしね」
少し懐かしむような表情を浮かべていた睦実が、小さく笑った。
「ここで逃げたら、罰が当たっちゃうもの」
「……なるほどね」
穏やかに微笑む睦実を見て、田辺も少し笑顔を浮かべた。
のんびりとした二人の空気を破って、雪乃が事務所に飛び込んで来た。
「あ、田辺君。もう睦実さんとはお話してるのね。じゃあ、もう一人の事務員さんを紹介します」
雪乃が、後ろにいたぽっちゃりとした女性を手のひらで指した。
「こちら、経理担当の樋口美鶴さんです」
「樋口です!現在独身、彼氏募集中の二三歳です。まあ、気軽に美鶴って呼んで下さい」
勢いよく言い放った美鶴が、田辺に向かって人懐こい笑顔を見せた。
落ち着いた睦実とはまったく違い、美鶴はとにかく元気だった。赤みが掛かった茶色の髪を、学生のように二つで結んでいる。やはり、年齢よりもずっと幼く見えた。
笑顔を浮かべている美鶴の頭を、雪乃がぱしっと叩いて見せた。
「ちょっと、美鶴。彼氏募集中なんてよく言えるね。坂本君はどうしたのよ」
「ああ、いいのいいの。あいつはどうせ、会社で若い子を追いかけてるんだから」
「なに言ってるの!高校の時からあんなに仲良かったくせに」
「そんな古い話持ち出さないでよ。あの頃はお互いに子供だったの」
ぽんぽんとリズムよく交わされる会話をぼんやりと聞いていた田辺に、睦実が声を掛けた。
「あのね、この二人は、高校生の時からの友達なのよ」
睦実の声を聞きつけて、美鶴が思い出したように田辺に手を差し出した。
「そうなんです。まあ、いわゆる一つのコネ入社って奴ですね。あ、そんなわけで、どうぞよろしくです」
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
少し頭がふらふらするのを感じながら、田辺は美鶴の手を受け取った。
ふと、事務所にチャイムが鳴り響いた。
時計を見上げた雪乃が、田辺に眼を向けた。
「田辺君、今から倉庫で午後のミーティングがあるの。そこでパートの皆さんにあなたの事、紹介するからね。挨拶の言葉、考えておいて下さい」
呼びかけられた田辺は、混乱が持続したままとっさに返事をした。
「あ、はい。……分かりました」
田辺の返事を聞いた雪乃が、にっこりと笑ってから背を向けた。
「ではでは、張り切って午後の仕事に向かいましょう!」
跳ねるように歩き出した雪乃の背中をうつろに見つめながら、田辺はぶつぶつと呟き始めた。
「えーっと。『どうも、初めまして!』なんてのじゃ軽いし……。『やあ、こんにちは!』。……違う。『皆さん、お元気ですか?』。……まったく違う」
事務所を出て行く雪乃の後ろに続きながら、田辺は自分が納得出来るような素敵な挨拶をしばらくの間考え続けていた。
事務所を出てすぐ右側の建物が倉庫だった。田辺は、倉庫の入り口に張ってある見取り図に眼を走らせた。
三階建てになっている倉庫の、一階が荷物の積み下ろしをする場所。二階が商品の詰め込みを行う場所で、三階は休憩室と表示されていた。
二階へと続く階段を上っている時に、隣を歩いていた睦実が田辺に向かって小さく声を掛けた。
「田辺君、パートさん達って結構迫力あるけど、驚かないでね」
田辺は、何かを達観し始めたような表情で睦実を見返した。
「大丈夫ですよ。俺、たぶんこれ以上驚けないですから」
「だといいけどね……」
睦実が、くすっと笑いながら呟いた。
二階のドアを開けると、田辺が想像していたよりも閑散としていた。
天井が高い倉庫の壁側に、大きなベルトコンベアーがカーブを描きながら設置されていた。床に、商品を詰め込んでいる途中のダンボールがいくつか放置してある。
倉庫の三分の二のスペースに、巨大な棚が整然と並んでいた。そこには、様々な商品が隙間なくぎっしりと積み上げられていた。
初めて見る光景のあちこちに眼を向けていた田辺は、ふと怪訝な表情を浮かべた。広い倉庫中に、なにやら大きな音がわんわんと響いていたのだ。
棚と棚の間を通り抜けて開けた場所に出た時、田辺は思わず大きく後ずさりした。その背中を、睦実が無常にも押し出した。
「こら、田辺君。驚かないって言ってたでしょ」
「そりゃ言いましたけど……。これはちょっと反則でしょう」
小さく抗議しながら、田辺は情けない表情を浮かべた。
そこには、大勢のおばさん達がわんわんと話をしながらぎっしりと並んでいた。
四人の姿を眼にすると、おばさん達の話し声がぴたりと止まった。
先頭を歩いていた雪乃が、おばさん達に向き合う形で足を止めた。ここから逃れたいあまり、田辺は後ろに回りこんでいく睦実達に付いて行こうとした。その田辺のスーツの裾を、雪乃がつかんで引き止めた。
「ちょっと、どこ行くつもり、田辺君?」
「いや、俺ペーペーなんで、一番後ろに並んでます」
「そんな遠慮しないで。今日はあなたが主役なんだから」
田辺が大人しくなったのを見極めてから、雪乃がおばさん達に顔を向けた。
「えっと。お疲れ様です、みなさん。午前中はとてもスムーズに仕事をこなして頂いて、おかげ様で出荷数も順調です。午後もこの調子でおねがいします」
深く頭を下げてから、雪乃が手の平で田辺を指した。
「さて、今日はご紹介したい方がいます。こちらは、さっき採用が決まった田辺将弘さんです。田辺さんには営業として頑張って頂きます」
名前が告げられた途端に全ての人の眼が向けられ、田辺は非常に居心地の悪そうな表情でそっと眼を伏せた。
「田辺さんは、今までも営業としてバリバリと働いてこられたベテランです。きっと我が社でも活躍して下さると思います。それでは一言挨拶して頂きましょう。田辺さん、どうぞ!」
しっかりと盛り上げてから、雪乃が田辺の側を離れ、後ろへと下がった。
一人で取り残された田辺は、さっきから少し戸惑いを感じていた。
田辺を凝視しているおばさん達の眼。その眼には、まるで獲物を見つけたハンターのような、ある種の光が感じられた。
不吉な予感を抱きつつも、とりあえず田辺は自分を励まし、軽く咳払いをしてから話を始めた。
「えー、ただ今ご紹介頂きました、田辺将弘と申します。営業の経験はありますが、まったく分野が違う事業内容だったので分からない事が多いと思います。どうか、ご指導をお願い致します」
頭を下げた田辺に向かって、真剣な顔で聞き入っていたおばさん達が一斉に拍手をしてくれた。その拍手が収まる頃、雪乃が再び前に進み出た。
「それでは皆さん、午後の作業に取り掛かってください。田辺さんには、しばらく倉庫の中を見てもらいます。通りかかったらいろいろと教えてあげて下さいね。では、ミーティングを終わります」
雪乃の言葉に従い、おばさん達が一斉に倉庫に散った。
それを見送りながら小さく息を吐いた雪乃が、田辺に顔を向けた。
「じゃあ、田辺君。三〇分くらい倉庫内を見て回ってから事務所に来てね。私達は、事務所に戻ってるから」
「はい、分かりました」
頷いた田辺の横を通り過ぎながら、美鶴が笑顔を浮かべた。
「じゃ、田辺さん、またあとでねー」
ひらひらと手を振って見せてから、雪乃と美鶴が倉庫から出ていった。
一人残っていた睦実が、いたずらっぽく田辺を見ながら歩み寄ってきた。
「田辺君、少しだけアドバイスね。この倉庫内でより良い人間関係を保つためには、愛想の良さと、辛抱強さと、口の堅さが求められます。くれぐれも、自分のプライバシーを大切にね」
田辺は、少し疲れが見え始めた顔を睦実に向けた。
「またぁ。なんなんですか、その意味深なアドバイスは?」
「大丈夫、すぐに意味が分かるから。じゃあ、頑張ってね」
にっこりと笑ってから、睦実が倉庫をあとにした。
しばらくの間、田辺は睦実の背中を見送っていた。やがて頭をかきながら振り返った田辺は、その場の光景を見て大きく肩を震わせた。
いつの間にか、倉庫に散らばったはずのおばさん達が田辺の周りににじり寄って来ていた。
そして、攻撃が始まった。
「田辺君、彼女いるの?」
「今、いくつなの?」
「どこの大学だったの?」
「家はどの辺?ここから近いのかしら?」
「前の会社は、どうして辞めたの?」
「そりゃ、やっぱり人間関係じゃなーい?」
「前の会社って、大きかったの?」
「やっぱり上司のセクハラとかあったの?」
「田辺君は男だからそんなのないわよね?」
「うちの娘が今二〇歳なんだけど、彼氏がいないのよ。よかったら付き合ってもらえないかしら?」
「あら、だったらうちの娘が先よ。うちのはもう、三〇行っちゃうんだから。あはは」
数々の質問が機関銃のように放たれる様子を、田辺はぼんやりとしたまま眺めていた。
ふと、一人のおばさんが田辺の顔を覗き込んだ。
「あら、やだ。この子ったらびっくりした顔してるわよ」
「まあ、本当ねぇ。どうしたの、僕。何か珍しいものでも見えた?」
一斉に笑い始めたおばさん達の間で我に返った田辺は、さっきの睦実の言葉を思い出し、とっさに引きつった笑顔を浮かべた。
「い……、いやぁ、こんなに大勢のおきれいな方々に囲まれた事がないもので、ちょっとびっくりしてしまいました」
田辺の言葉を聞いて、おばさん達がぴたりと笑うのを止めた。
さすがにくさかったかと不安に思い始めた直後、おばさん達がなにやら照れくさそうに、おほほほほと笑い出した。
「いやぁねー、もう!そんなお世辞言ったって何にも出ないわよー」
「でも、なかなか可愛いとこあるじゃないの。いいわ、私達がいろいろ教えてあげるからね。もちろん、手取り足取り。うふふふふふふ」
「はあ、……よろしくお願いします」
ばんばんと背中を叩かれて前のめりになりながら、田辺は再び引きつった笑顔を浮かべた。
その時突然、倉庫内に男性の声が響いた。
「もうその辺でいいでしょう。みなさん、作業に戻ってください」
一瞬にしてその場が静まり返った。
いきなり口をつぐんだおばさん達の様子に戸惑いながら、田辺は声の方を振り返った。
一人の男性が、こちらに向かって歩いて来ていた。田辺の前に立ち止まったその男性から逃げるように、おばさん達が再び倉庫に散って行った。
「あの人達は眼を離すとすぐにああなんですよ。まったく困ったもんだ」
何やらわざとらしいため息をついた男性が、田辺に顔を向けた。
「門脇と申します。私は、この倉庫の仕入れ主任なんですよ」
「あ……そうですか。えっと、私は田辺と申します。営業で採用されました。よろしくお願いします」
頭を下げ終えた田辺は、さりげなく門脇の観察を始めた。
門脇の第一印象は、とても冷たかった。
年齢は三〇代半ばくらいだろうか。メガネの奥から見上げるように相手の顔を見るのが癖らしい。常に浮かべている薄い笑顔に、田辺はふと、軽い嫌悪感を抱いた。
田辺を探るように眺めながら、門脇が薄い笑いを浮かべた。
「田辺君、君はここで扱っているような雑貨には詳しいのかな?」
我に返った田辺は、とりあえず笑顔を作りつつ頭をかいた。
「いいえ。前の会社はまったく違う事業内容だったもので、正直言って、あまりよくは知らないんですよ」
答えを聞いた門脇が、待ってましたとばかりに鼻で笑った。
「ふーん、なるほどね。この会社は人手不足が続いてるから仕方ないんでしょうね。まあ、しっかり勉強して下さいよ。せっかくいい商品を仕入れても、営業が出来ないんじゃ話にならないからね」
突然投げ掛けられた嫌味な言葉よりも、田辺は門脇の人を馬鹿にしたような態度に対して憤りを感じた。
無言で頭を下げ、田辺は門脇から離れて行った。
倉庫の中を見て回るのは思っていたよりも楽しかった。
棚の高さは二メートルくらいだろうか。大きく二段に分けてあり、それぞれの棚に色とりどりの商品が積んであった。
一見すると考えもなく並んでいるように見える。しかししばらく観察していた田辺は、それぞれの商品がきちんと手に取れるよう、重ね方に工夫されているという事に気がついた。
おばさん達はそれぞれ手にファックス用紙を手にしている。どうやら、ファックスで送られてくる注文用紙に従って商品をダンボールに詰め込んでいくらしい。
すべて詰め込まれたダンボールは、ベルトコンベアーに乗せられて荷物用のエレベーターの前に送られる。ある程度まとまった頃に一階に運ばれ、配送業者のトラックに乗せられて得意先に配送されるという仕組みだ。
一旦作業が始まると、おばさん達はみんな真面目だった。ぶらぶらと歩いていた田辺は、一際手さばきがいい人に気がついて足を止めた。
四〇歳半ばと見られるその人は、明らかに周りとは違う手さばきをしていた。
恐らく長く働いている人なのだろう。あまり細いとは言えない体が嘘のように、動きにまったく無駄がなく、軽やかだった。
ほれぼれと見ていた田辺の眼の前で、その人はあっという間に商品を詰め込んだ。自分を見ている田辺に気が付くと、愛想のいい笑顔を浮かべた。
「どうだい、倉庫の中は。意外とおもしろいだろう」
声を掛けられた田辺は笑顔を返しながら歩み寄った。
「ええ。商品を見てるのも、みなさんの作業を見てるのも楽しいですよ。みなさん、手際がいいですね」
「まあね、毎日やってりゃ、このくらいの速さにはなるだろうさ」
答えながら、その人はTシャツの首元に押し込んであったタオルを取り出し、顔の汗を拭いた。
「私は、大貫正子って言うんだよ。よろしくね、田辺君」
「あ、こちらこそ、よろしくお願いします」
田辺は頭を下げた。
「大貫さんは、どのくらいここで働いていらっしゃるんですか」
軽く笑いながら正子が答えた。
「私は長いよ。そうだねぇ、確か今年で一二年になるかな」
「そうなんですか。じゃあ、亡くなった先代とも話した事あるんですか」
「ああ、あるよ。先代は気さくな人だったからね。倉庫にいる私達一人一人に声を掛けてくれてたよ」
頷いて見せながら、正子は側に転がっていたガムテープでダンボールの口を止めた。
「今の社長もその血を受け継いでるね。あの子も一生懸命私達の名前を覚えてくれて、いろいろ話し掛けてくれるよ」
「ああ、その姿は何となく想像出来るような気がします」
田辺は、少し笑って見せた。
田辺の笑顔に眼を戻しながら、正子がふうっと息を吐いた。
「それにしても、小さかったあの子が今じゃ社長だなんて信じられないよ。初めてあの子を見た時は、まだ一一歳だったからね」
ふと、正子の表情がさっきまでの勇ましいものから優しいものへと変わった。
「私には子供がいないんだ。だから余計にあの子が可愛くてね。あの子も突然母親がいなくなったものだから、私の事を母親代わりに思ってくれていたのかも知れないね。一度、母の日に学校で作ったカードを持ってきてくれたんだ。あれは嬉しかったねぇ」
興味深げに話を聞いていた田辺の耳に、ふと気になる言葉が引っ掛かった。
「あの、社長のお母さんはどうなさったんですか?」
一瞬「しまった」という顔をした正子が、自分を見つめている田辺の顔を見て、ごまかす事を諦めたように頭をかいた。
「あの子の母親は茅乃さんと言ってね、とてもきれいな人だったよ。だけど、二人は離婚してしまった。あれは、確かあの子が一五歳の時だったかね」
複雑な表情を浮かべた正子が、小さくため息をついた。
「離婚したあと、あの子は先代の方に引き取られたんだけどね。茅乃さんは何故かずっとあの子に会おうとしないんだ。あの子は何も言わないけど、その事で随分と頭に来てるんだろうね。どんなに経営が苦しかった時でも、茅乃さんに連絡をしようとしなかったんだ」
意外な話を聞きながら、田辺は納得したように頷いた。
「なるほど。それで彼女が社長になったんですね」
「ああ、先代の残してくれた会社を絶対につぶさないって、毎日張り切ってるよ。それに先代と同じように会社で働く者を大切にしてくれてね」
答えた正子が笑顔を見せた。
「この一年間、給料もボーナスも前年分を維持してくれてるんだ。このご時世、なかなか出来るもんじゃないよ。あんたもいい会社に入ったね、田辺君」
「ええ、そうですね」
田辺は思わず微笑みながら正子を見返した。
ふいに、田辺を見ていた正子の眼が横に逸れた。急に緊張が走った正子の様子に戸惑った田辺は後ろを振り返った。
田辺の眼に、ゆっくりと歩み寄る門脇の姿が写った。
二人の前で立ち止まった門脇が、正子に顔を向けた。
「随分とのんびりしてますねぇ。パートリーダーのあなたがそんな事では、周りに示しが付かないんですがね」
門脇の嫌味な言い方に対して、正子は努めて冷静に対応しようとしているようだった。
「主任、今日のノルマは確か一人ダンボール一五個だったと思うけどね。私は午前中に二〇個作ったんだ。少しくらいのんびりしたって、罰は当たらないんじゃないのかね」
門脇が、まっすぐに眼を向けてくる正子から視線を逸らした。
「……まあ、いいでしょう。あんまりうるさく言って、あなたみたいに仕事が出来る人に辞められたらかないませんからね」
そのまま田辺に顔を向けた門脇が、例の嫌な笑いを浮かべた。
「田辺君、倉庫を見学するのはいい事だが、人の仕事を邪魔しないようにしてくれ。倉庫の人間は君みたいに暇じゃないんだからね」
一瞬眉を寄せかけた田辺は、正子を見習って自分の感情をなんとか押さえた。
田辺の返事を待つ事もなく、門脇が二人に背を向けた。歩き去る門脇を、正子がするどい眼で見送った。
「まったく、嫌味な奴だよ。私がこの仕事を辞めるわけないじゃないか」
呟いた正子が、苦い表情のまま田辺に話し掛けた。
「田辺君、あいつはね、嫌味な上に妙に眼が利くんだよ。今までにも弱みを握られて会社を辞めた人が何人もいる。あんたも気をつけな。あいつには、あんまり近づかない方がいい」
「分かりました、そうします」
田辺は素直に頷いた。
正子に言われるまでもなく、田辺は門脇に近づくつもりはまったくなかった。