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雪の降る空の下

1

 田辺将弘は困っていた。お金がないのだ。

 二七歳である田辺は、すでに五年間の社会人生活を送っていた。

 その間にこつこつと貯めていた貯金はもう底をついていた。つい先日、長年の夢だったマンションを購入したばかりだったのだ。

 マンションの頭金で五年間の貯金が全て飛んでいった。ついでに魔がさして買ってしまった大型テレビで、小学校の頃から貯めていたお年玉貯金がなくなった。

 財布の中にはあと二五円しかない。今は、押入れを探った時に出てきた一〇円玉貯金の缶を開けて何とか食いつないでいた。

 しっかりしていた昔の自分に感謝しつつ、二LDKのやけにだだっ広いマンションで無駄に大きいテレビを見ていると、段々自分が世界一の駄目人間な気がしてくる。田辺は、そんな気持ちをいい加減持て余していた。

 勤めていた会社が倒産したのは、一ヶ月前の事だった。

 ある日の朝、出勤した田辺を待っていたのは、何もないオフィスとたくさんの債権者だった。

 その日から、田辺はがむしゃらに就職活動を始めた。情報誌を買ってきて、とにかく眼に付いた会社に片っ端から履歴書を送った。しかしまったく手ごたえがなかった。ここ一ヶ月の間に掛かってきた電話は、両親と友達と、間違い電話のみだった。

「もう、田舎に帰ろうかな……」

 ベッドに寝転んで天井を見上げていた田辺は、憂鬱そうな表情で寝返りを打った。

 突然、枕元にあった電話が鳴り出した。がばっと起き上がった田辺は一コールしか鳴る隙を与えずにすばやく受話器を取り上げた。

「はい、田辺です!」

 受話器から、涼しげな女性の声が聞こえてきた。

「こちら、北村事務所と申しますが。履歴書を送ってくださった田辺将弘さんはいらっしゃいますか?」

 緊張で汗ばんだ手で受話器を握り直してから、田辺は一回深呼吸をした。

「私が、田辺将弘です」

「そうですか。では早速本題に入らせて頂きます。田辺さんに面接に来て頂きたいのですが、ご都合のよろしい日はございますか?」

「いつでも大丈夫です。ご指定の日に伺います」

「……いつでも、いいんですね?」

 女性の声に念を押すような響きが現れた。

「じゃあ、今すぐ来てください」

 田辺は、言葉の意味を一瞬見失った。

「……今すぐ、ですか?」

「ええ、今すぐお願いします。田辺さんの住所から私共の会社まで、大体五〇分あれば来られると思います。なので、そうですね。まあ余裕をみて一時間後。一一時四五分のお約束でどうですか?」

 随分急な話だとは感じた。だが、財布の中が二五円である田辺に迷いはなかった。

「分かりました。では、その時間までに伺います」

「お待ちしております。では、失礼」

 ぷつっと電話が切れたと同時に、田辺は立ち上がった。

 パジャマを脱いでワイシャツに袖を通しながら、今までの情報誌を全てひっくり返して北村事務所のページを見つけた。

「楽しい雑貨に囲まれた、楽しい職場です」

 そんな言葉が眼に飛び込んできた。

 どうやら雑貨を扱う問屋の会社らしい。営業の募集だった。

 田辺は急いでそのページを切り取り、一〇円玉貯金から電車賃をかき集めると五分で家を出た。

 電車の中で、田辺は北村事務所の募集内容を読み返していた。

「基本給二〇万円。社保完。昇給賞与あり、か。まあ、悪くないな……」

 軽くため息をついてから、田辺は流れて行く景色に眼を移した。

 季節は夏から秋に変わり始めていた。

 眼に入ってくる木々の葉は、少しずつ緑から黄色に変わろうとしている。街を行く人達の服装も、半袖と長袖が混ざり合って賑やかだ。

 これからどんどん、季節は秋へ、そして冬へと向かう。

 暖房器具が欲しい。

 前に住んでいた狭いアパートでならコタツのみでも生き延びて来られた。しかし、あのだだっ広い部屋ではあまりにもつらい。正月には人並みに、もちぐらいは食べたい。

 田辺は、いつしか熱い思いで北村事務所のページを握り締めていた。

 北村事務所は、最寄駅から走って二分という分かりやすい場所に建っていた。指定時間の三分前に辿り着く事が出来た田辺は、大きく肩で息をしながら、自分で自分を誉めてあげた。

 思っていたよりも大きい会社だった。とは言っても、ほとんどの敷地が倉庫らしい。トラックが一台、荷物を搬入していた。

 軽く息を整えながら、田辺は事務所のドアをノックした。

「はい、どうぞ」

 返事を確認した田辺は、緊張を隠しながらドアを開けた。

 事務所の中には机が二つ、向かい合って並べてあった。それぞれの机の前に女性が一人ずつ座っている。制服はないらしく、二人とも私服だった。

すらっとしたスマートな人とぽっちゃりとした人。スマートな人の方が、田辺に声を掛けてくれた。

「田辺さんですか?」

「はい、そうです」

「お話は伺っております。あちらの社長室にお入りください」

 スマートな人が、そこだけやけに重厚に出来ているドアを示した。

 田辺は、二人に軽く頭を下げてからそのドアをノックした。

「どうぞお入りください」

 小さく息を吐いた後、田辺は改めて緊張を隠しながらドアを開け、足を踏み入れた。

 意外と狭いその部屋の一番奥に、社長用らしき机があった。その机の向こう側に大きな椅子が置かれている。何故か、その椅子は田辺に背を向けていた。

「四七分五二秒、ね。ふーん、なかなかのタイムじゃない」

 女性の声が聞こえたと同時に、椅子がくるりと田辺に向けられた。

 ふかふかとした椅子に半分埋もれるようにして、小柄な女性が座っていた。

 あごのラインに揃えた髪を、きれいに外巻きにセットしている。くりくりとした可愛らしい眼が田辺に向けられていた。

 体型も含め一〇代にしか見えないが、よく見ると、似合わないながらもかっちりとしたスーツを着込んでいた。

 しばらくの間ぼんやりとその女性を見つめていた田辺は、ようやく自分の立場を思い出し、咳払いをした。

「あの、本日お電話頂いた、田辺将弘と申します。面接をして頂くために伺いました。よろしくお願い致します」

 探るような眼で様子を見ていた女性が、田辺の顔の前に人差し指を差し出した。

「採用!」

「……え?」

「あなたを採用します。私は、ここの社長の北村雪乃。よろしくね」

 雪乃がきびきびと立ち上がり、田辺に握手を求めた。唖然としながらも、気が付けば田辺は雪乃の手を握っていた。

 田辺の手を離した雪乃が、部屋の中を歩き回りながら話を始めた。

「事務手続きは明日にしましょう。関係書類はあとで総務の睦実さんにもらってね。それと、明日からはスーツじゃなくてもいいから。でもまあ、せっかくきちんとした格好で来てくれたんだから今日のうちにお得意様周りしちゃいましょうね。午後になったら私と一緒に外回りですからよろしく」

 状況を飲み込めていない田辺は、軽く頭を押さえながら口を挟んだ。

「……あの、ちょっと待ってもらえますか」

 ようやく発せられた田辺の一言は、雪乃の耳にまったく届かなかったらしい。

引き続き、雪乃の話が続いた。

「ではここで、少し会社の説明をしておきますね。我が社は創業二三年の歴史を持っています。先代社長、北村光一郎が三〇歳の時に我が社を設立。初めは小さな文房具店だったのですが、少しずつ貯めたお金で問屋を始めました。それからの地道な商売が身を結び、今ではパートも含めて二四人の社員を抱える会社までになったのです」

 とどまるところを知らない雪乃の話に翻弄されかけていた田辺は、試しに勢いよく手を挙げてみた。

「社長!質問してもよろしいでしょうか?」

 田辺の動作に気がついた雪乃が、足を止めて振り返った。

「質問?なにかしら。我が社の社訓ならこれから説明するんだけど」

「いえ、申し訳ないのですが、もっと基本的な質問です」

「そうなの?まあ、いいわ。何でも訊いて」

「それでは遠慮なく」

 雪乃に向けて身を乗り出し、田辺は真剣な表情で尋ねた。

「私は、どのような理由でここに到着してから一分間で採用して頂いたんでしょうか」

 その言葉を聞いて眼をぱちくりとさせていた雪乃が、やがて上眼使いに田辺を睨んで見せた。

「そんな事訊きたいの?くだらないなー」

「いいえ、私にとっては恐ろしく重要な事なんです」

 雪乃が、軽く首を傾げた。

「……どうしても、知りたい?」

「はい。ぜひ、お願いします」

「ちぇ、もっと話したい事あったのにぃ」 

呟きながら、雪乃が頭をかいた

「あなたを採用した理由は三つあるの。まず一つ、電話の応対が良かった。次に、指定した時間に間に合った。私、態度悪くてルーズな奴って大嫌いなの」

 雪乃の言葉を聞いた田辺は、眼を逸らながら小さく呟いた。

「……くっだらねぇ」

 雪乃が田辺にきりっとした眼を向けた。

「今、なんか言った?」

「いいえ、何も」

 田辺は澄ました顔で首を振った。

「で、社長。最後の理由はなんでしょうか」

 田辺の問いを聞き、雪乃がふいに背を向けて机に手を伸ばした。

「あと一つの理由……、それはこれよ!」

 振り返った雪乃の手には、田辺が送った履歴書がしっかりと握られていた。

 しばらくの間自分の履歴書をしみじみと眺めてしまった田辺は、気を取り直したように雪乃に眼を戻した。

「これ、私の履歴書じゃないですか。これが何か?」

「この志望動機にしびれたの。私、こんな正直な履歴書、初めて見た」

「志望動機?」

 怪訝な顔をしながら、田辺は履歴書を受け取った。

 志望動機の欄には「経済的に困っているため」とだけ書かれていた。

「……俺、何でこんな事書いたんだろう」

 田辺はぽつりと呟いた。

 その田辺の横で、雪乃が熱く語り始めた。

「私は感動した。こういう事を書いてよこす奴は、きっとガッツのあるハングリーな男に違いないって思ったの」

 ふと言葉を切って、雪乃が田辺に眼を走らせた。

「まあ、外見は想像と違ってたけど」

「……悪かったですね、貧弱で」

 憮然としている田辺の顔を、雪乃がにっこりと覗き込んだ。

「まあいいから。ハートで勝負してもらえばいいし。ハングリーに、どんどん契約取ってきちゃってよ」

 田辺はふと、雪乃から眼を逸らした。

「あの、社長。今回はまだ本採用じゃないですよね。私、もうしばらく考えさせて頂きます。また出直しますので、これで……」

「え、待ってよー。こっちが採用するって言ってるのに、なんであなたが断るの?」

 ふくれた顔を見せた雪乃に向かって、田辺はきっぱりと言い放った。

「悪いけど、こちらにも選ぶ権利はあるんです」

「何よ、それ!」

 眉を寄せた雪乃が、田辺に向かって一歩踏み出した。

「ちょっと!それってどういう意味?」

「どういう意味かをお話したら、あなたもっと怒るでしょう?」

 睨みつける雪乃に動じる様子を見せず、田辺は冷静に答えた。

 そのまま、二人はしばらくの間睨みあっていた。

 先に眼を逸らしたのは雪乃だった。

 ふーっと息を吐き出しながら、雪乃が俯いて見せた。

「……分かった。あなたがそういう事を言うのなら、こちらにも考えがあるわ」

 田辺は、雪乃に探るような眼を向けた。

「……なんですか、考えって」

 その田辺に、雪乃が背を向けた。

「ねえ、田辺君。就職情報誌に載ってたうちの給料、いくらだった?」

「二〇万円でしたけど、それが何か?」

 雪乃がにっこりと笑いながら振り返った。

「その条件、訂正させて頂きます。諸手当合わせて、二五万円でいかが?」

 とっさに胸を押さえた田辺が、うなるように呟いた。

「……くっそぉ。痛いとこ突かれた」

 動揺している田辺に向かって、雪乃が机に積んである書類をぽんぽんと叩いて見せた。

「さあさあ、どうする?帰りたければ帰ってもいいのよ。ほら、こーんなに履歴書来てるんだから」

 田辺はしばらくの間、自分の中の何かと葛藤をしているような表情を浮かべていた。

 やがて、大きく息を吐き出した田辺は、諦めたように呟いた。

「分かりましたよ。ありがたく、勤めさせて頂きます」

 間髪入れず、雪乃がにっこりと笑顔を浮かべた。

「オッケー、決まりね。じゃあ、これからよろしく、田辺君」

「……こちらこそ、よろしくお願いします」

 答えた田辺は、雪乃の満面の笑顔に恨めしそうな眼を向けた。

 ふいにチャイムが聞こえてきて、雪乃が壁に掛かった時計に眼をやった。

「あ、お昼休みだ。ご飯食べに行こうっと。じゃあ田辺君、午後から早速仕事だからよろしくね」

 田辺の返事を待つ事もなく、バックをつかんだ雪乃がとっとと部屋を出て行った。

 一人取り残された田辺はふと、まだ持ったままの履歴書に眼を落とした。自らが書いたその履歴書をしみじみと見つめながら、田辺は深いため息をついた。



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