「ここが、私のうち」
雪乃が二階建ての家を指差した。
一人で帰れると言う雪乃を、田辺は半ば強引にここまで送って来た。どこかで門脇が見ているかも知れない。そう思うと、田辺はどうしても雪乃の側を離れる事が出来なかった。
「じゃ、俺は帰ります。くれぐれも戸締りには気を付けて」
雪乃が小さく頷いた。
「ありがとう。大丈夫、私お隣さんと仲いいし。何かあったらすぐに助け呼ぶから」
「そうですか。それなら、俺も安心して帰れますよ」
「うん。安心して」
健気に笑顔を見せてくれる雪乃の顔を、田辺はそっと覗き込んだ。
「社長、本当に大丈夫ですか。あの、精神面の事なんですけど」
田辺の問いに、雪乃が少し眼を泳がせた。
「……うん、平気。ちょっとびっくりしたけど、もう大丈夫だから」
「そう、ですか」
雪乃の様子が気になりながらも、田辺は軽く頭を下げた。
「じゃあ、失礼します」
「うん。じゃあ、ね」
雪乃の声を背にして、田辺は歩き出した。
そのまま五〇メートルくらい進んだ時、ふいに大きな声で自分を呼ぶ雪乃の声が聞こえ、田辺は振り返った。
「待って。田辺君、待って!」
駆け寄って来た雪乃が、震える手で田辺の腕をつかんだ。
「……ごめんなさい、やっぱり駄目みたい。もう少しだけ、あと少しだけ一緒にいて」
田辺の腕をつかんだまま、雪乃がその場に泣き崩れた。
黙って助け起こした田辺は、雪乃の体をそっと抱きしめた。
雪乃の家は、田辺が思っていたよりもずっと古くて小さかった。
一階は、台所と居間と和室。廊下側が窓になっていて、そのまま庭に降りられるようになっていた。二階は、恐らく二部屋くらいだろう。
田辺はふと、この家に流れる静かで暖かな空気に気がつき、何となく親しみを感じた。
「うち、狭いでしょう」
少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら、雪乃が田辺の前に湯飲みを置いた。
「そんな事ないですよ。それに俺、こういう雰囲気の家って好きです。実家を思い出しますから」
田辺の前に座った雪乃が、自分の湯飲みを両手で包み込んだ。
「田辺君の実家って、どこだっけ」
「福井です」
「福井か、行った事ないなぁ」
呟いた雪乃が、田辺に顔を向けた。
「どんなとこなの?」
「そうですね」
懐かしむような表情で、田辺が天井を見上げた。
「海が近くて魚がうまいです。俺、こっちで刺身ってあまり食べないんですよ。実家にいた時にうまいの食べ過ぎてて、口に合わないんです」
「そうなんだ、いいなぁ」
雪乃が羨ましそうな表情を浮かべた。
「私、魚ってすごく好きなの。特にお寿司。お寿司だったら一ヶ月くらい食べ続けられるかも知れない」
「そりゃ、相当好きなんですね」
田辺は思わず声を立てて笑った。一緒に笑う雪乃の様子を確認しながら、田辺は話を続けた。
「実家に帰ると、何故かとても落ち着くんですよ。すごくごちゃごちゃしてるんですけどね。民芸品のつまった飾り戸棚が三つも並べてあったりするし」
雪乃が笑顔のままで頷いた。
「あ、それ分かる。飾り戸棚はうちにもあるもん。お父さんが、旅行に行くたびにせともののお人形とか買って来るの。もういらないって何度も言ってるのに」
「あ、俺の親父もそうですよ。いつもお袋にブーブー言われてました。でもお袋も、結構そのお土産を楽しみにしてたみたいですけどね」
雪乃がぽつりと呟いた。
「……そっかぁ。田辺君のご両親は、仲がいいんだね」
急に小さくなった雪乃の声を耳にして、田辺は自分の失言に気がついた。
「あ……、すみません。なんか俺、気が利かなくて」
思わず俯いた田辺を見て、雪乃が小さく笑った。
「やだ、どうして謝るの?田辺君、謝るような事言ってないじゃない」
「はあ、すみません」
「また謝ってる。謝らないで」
「はい、……ごめんなさい」
困った様子で俯いていた田辺の耳に、雪乃の震えた声が聞こえた。
「田辺君は、謝らないで。謝らなきゃいけないのは、私なんだから」
「……え?」
思わず顔を上げた田辺は、雪乃の頬にこぼれ落ちている涙をぼんやりと見つめた。
「ごめんね、田辺君。私って本当に馬鹿だよね。門脇さんの言う通り、社長失格だよね」
涙を拭おうともせず、雪乃が言葉を続けた。
「自分でも分かってるの。こんな気持ち持っちゃいけないって。好きになっちゃいけないんだって。だけどね、やっぱり駄目なの。私、自分の気持ちに嘘つけないもん」
「社長……」
田辺は小さく呟いた。
その声を聞いた雪乃が、何かを決心したように田辺を見つめた。
「田辺君、お願いがあるの」
「……なんでしょうか」
「私の事、嫌いになって」
雪乃の言葉に、田辺は混乱したような表情を浮かべた。
「どうしてですか?」
「田辺君に嫌われれば、きっと諦められるから。今まで通り、社長として向き合えるようになるから」
苦しげに顔を背ける雪乃を、田辺は真剣な表情で見つめていた。
「それは出来ません」
「……どうして?」
消え入りそうな声で呟く雪乃から眼を逸らし、田辺は静かに答えた。
「俺はそんなに器用じゃないんです。泣いてるあなたを見て、その原因が俺だと知ってて。なのにあなたを嫌いになるなんて、そんな事は出来ません」
「でも……、このままじゃ私、辛いよ」
「だったら、俺を恨んで下さい」
田辺は、雪乃に眼を戻した。
「俺はあなたを苦しめている。楽にしてもやれない。恨まれて当然だと自分でも思います。だから、俺を恨んで下さい。そうすれば楽になれるじゃないですか」
「そんな……」
戸惑った様子の雪乃の肩に、田辺はそっと手を置いた。
「さあ、どうぞ。今までの苦しさをぶつけて下さい。おまえなんか嫌いだと罵って下さいよ」
「そんな事、出来ないよ!」
雪乃が大きく首を振った。
「だって……、だって好きなんだもん!ずっとずっと好きなんだもん」
「だったら、好きなままでいればいいじゃないですか」
「……え?」
田辺の言葉につられて、雪乃が顔を上げた。その雪乃の眼を、田辺はしっかりと受け止めた。
「他人に何を言われても無視してればいいじゃないですか。立場とか肩書きとか、そんなものを気にしながら人を好きになるなんて打算的です。そういうものを超えて、それでも好きになったあなたの気持ちはすごく尊いものだと思います。だから」
ふと、田辺が眼を伏せた。
「……俺を好きになった事を、後悔したりしないで下さい」
「田辺君……」
雪乃が小さく呟いた。
しばらくの間、二人は無言のままで俯いていた。
やがて、涙を拭いた雪乃が田辺に穏やかな眼を向けた。
「田辺君の言ってる事、分かった気がする」
「そうですか。……よかった」
大きく息をついた田辺に向かって、雪乃が言葉を続けた。
「でもね、ちょっとだけ釈然としないの。恨んだりはしないけど、ちょっとだけ田辺君の事が憎たらしい。だからね」
言葉を切った雪乃が、田辺に真剣な眼を向けた。
「一回だけ、殴らせて」
「……殴る?」
「うん、殴らせて」
きっぱりと言い切った雪乃を見て、田辺は何となく納得したように頷いた。
「分かりました。どうぞ」
「では失礼して」
軽く頭を下げてから、雪乃がきりっと眉を上げた。
「田辺君のばかぁ!」
気合と共に放たれた雪乃の張り手が、ものすごく力強く田辺の頬にぶち当たった。
「…………痛ってぇ」
うなるように呟き、田辺はその場に倒れこんだ。
「あー、すっきりしたぁ」
さっぱりとした顔をしている雪乃を、田辺は恨めしげに見上げた。
「ひどい……、本気で殴る事ないじゃないですかぁ」
情けない声を出している田辺を見て、雪乃が吹きだした。
「ごめんね、田辺君」
そのままくすくすと笑い続けている雪乃を見て、田辺もいつしか一緒に笑い出した。
二人の笑いが落ち着いた頃、田辺は壁に掛けられた一枚のパネルを見上げた。
「社長、この写真は先代ですか?」
「うん。一番いい顔してる奴を引き伸ばしてもらったの」
「へー……」
立ち上がって、田辺はパネルの前に立った。
先代の髪は白髪混じりで、しわもたくさんある。自分に似ているのかどうか、田辺には見当がつかなかった。
「こっちにもいっぱい飾ってあるんだよ」
雪乃が示した洋服ダンスの上には、写真立てが所狭しと並べられていた。
端から順番に見ていた田辺は、一枚だけ置いてある女性の写真に気がついた。白黒の写真にいるその女性は、雪乃でも茅乃でもない。
「あの、この写真の人は誰なんですか?」
「ああ、この人はお父さんの昔の恋人」
雪乃が写真を覗き込みながら答えた。
「真由美さんっていうの。お父さん、この人と結婚の約束までしてたんだって。でも、その後すぐに病気で亡くなったらしいの。この写真は私が生まれる前からここに飾ってあったみたい」
「……へー」
話を聞いていた田辺は、ふと首を傾げて雪乃に眼を向けた。
「という事は、もちろん茅乃さんもこの写真を見ていたわけですよね」
「うん、そうだよ」
雪乃が頷いて見せた。
「父と母、それから真由美さんは高校時代の同級生だったんだって。真由美さんが亡くなってからしばらくして、お父さんは母と結婚したの。二人にとってとても大切な人だったからかな。こうして写真を置いていても、母は何も言わなかったの」
「……ふーん、そうなんですか」
頷きながらも、田辺は少し疑問に感じていた。
いくら友達だったからといって、自分の夫が他の女性の写真を飾っている事を認めるものだろうか。
田辺は、茅乃と先代の間にあった溝が少しだけ見えたような気がした。