次の日。宣言通り、門脇は来なかった。
なんとか気持ちの整理を付けたのか、雪乃はいつも通りの笑顔で仕事をこなしていた。
朝のミーティングで門脇の退社が発表された時、多少の動揺が走った。だが、もともとあまり好かれていたとは言えない男だったので不満を唱える者は誰もいなかった。
仕入れ主任には正子が就任した。担当者を信頼せず、中傷に近い注意を繰り返す門脇とは違い、正子は誉めて育てる上司だった。
会社の雰囲気はかえっていい方向に変わった。門脇を殴った事に責任を感じていた田辺は、密かに胸をなでおろしていた。
そんな時、事件は起こった。
門脇が辞めてから一週間目の事だった。
朝、会社に着いた田辺は倉庫の前の人垣に気がついた。一〇トントラックが三台横付けされ、次々とダンボールが下ろされている。
通常、そんなにたくさんの商品が一度に納入される事などない。不審に思った田辺は倉庫に駆け寄った。
次々と下ろされるダンボールを前に、みんな途方にくれたように立ち尽くしていた。
「どうしたんですか。これ、何の商品なんですか?」
田辺の声を聞いた雪乃が、真っ青な顔で振り返った。
「……じゃがらむらしいの」
「じゃがらむ?」
眉を寄せた田辺は、正子に眼を向けた。
「あれはもう売れない商品です。こんなに大量に発注するなんて正気とは思えませんよ」
頷きながら、正子が一枚の紙を差し出した。
「私もそう思うよ。どうやら正気じゃない奴の仕業らしいね」
それは発注書のコピーだった。じゃがらむのぬいぐるみが八千個、門脇の署名にて発注されていた。
八千個という数字を見て、田辺は声をつまらせた。
例えブーム中であっても、そんな数を売りさばくのは一苦労だ。ましてや、じゃがらむが売れなくなってかなりの時間が過ぎている。
次々と積み上げられるダンボールを前に、北村事務所の一同はただ立ち尽くすしかなかった。
トラックが帰ると同時に、事務所の者は打てるべき手を全てあたった。そして午後、それぞれの結果を手に事務所に集合した。
雪乃が田辺に眼を向けた。
「じゃあ、まずは田辺君、どうでしたか?」
「はい……」
田辺は暗い表情で答えた。
「俺はお得意先を回って来ました。でも、やっぱり無理ですね。中には売れ残っている店もあったくらいです。仕入れをお願いする事は、とても出来ませんでした」
「そうですか……」
雪乃が頷いた。
「次、睦実さん、お願いします」
「私は、美鶴と二人で門脇のアパートまで行ってきたの」
睦実が、少し疲れを覗かせながら答えた。
「でも部屋はからっぽだった。大家さんに訊いてみたけど、どこに行ったかは分からないそうよ」
「分かりました。遠くまで行ってもらってありがとう。田辺君もお疲れ様でした」
頭を下げた雪乃が、静かな声で話を続けた。
「私は、正子さんと一緒に警察の現場検証に立ち合ってました」
美鶴が驚いたように顔を上げた。
「警察って、どうして?」
「私が呼ぶように言ったんだよ」
正子が口を挟んだ。
「この発注書には社印がある。だが社長は押していないそうだ。恐らく、門脇が社長室に忍び込んだろう」
「どうしてそんな事を?」
思わず問い掛けた田辺に、正子が顔を向けた。
「実は以前、手違いで大量発注してしまった事があるんだよ。その時は社印が押されていなかった。その場合、社長の承認がないって事で返させてもらえる時があるんだ。恐らくそれを防ぐためだろうね」
「だけど、机の引出しには鍵が掛かっていたんですよね?」
「どうやら門脇は特殊な工具で鍵をこじ開けたらしい。机のあちこちに指紋が付いていたそうだよ」
美鶴が悔しげに呟いた。
「信じられない……!そんな事までするなんて」
睦実が、田辺に眼を向けた。
「田辺君、あの商品は全部でいくらになるの?」
「……ぬいぐるみは意外とするんですよ。しかもあれは一番大きいサイズだし」
田辺は机の上から電卓を取り上げた。
「一つが五九〇〇円で、仕入れ値は三掛け。数が八千個だから……」
金額をはじき出した田辺は、一瞬言葉をつまらせた。
「……あの商品の仕入れ値は、一四〇〇万円です」
事務所内の空気がますます重くなった。
美鶴が、すがるような眼を正子に向けた。
「ねえ、正子さん。どうしても返品は出来ないの?」
「それがねぇ」
正子が、深いため息と共に答えた。
「さっき、駄目で元々と思ってメーカーに電話してみたんだ。そしたら社員さんが出てね。会社はもう一週間前に倒産したって言うんだよ。しかも社長一家は夜逃げしたらしい。返品は不可能だね」
田辺は、思わず唇を噛みしめた。
あの時に違いない。
殴られた門脇が、自分の部屋に荷物を取りに行った。あの時、用意しておいた発注書をファックスしたのだろう。
誰もが口をつぐんでいる中で、雪乃がふいに呟いた。
「私がいけないの」
暗い顔で俯く雪乃は、痛々しいほど小さく見えた。
「社長室に鍵を掛けないで、大事な社印を金庫に入れなかったから。だからこんな事になったの」
睦実が、雪乃の肩にそっと手を置いた。
「自分を責めないで。そんな事しても意味ないんだから」
「そんな事分かってる!」
突然、雪乃が声を荒げた。
「意味ないのは分かってる!だけどどうしても考えちゃうの。お父さんならこんなミスはしなかった、私がちゃんとした社長ならこんな馬鹿な事にならなかったって」
雪乃の眼から涙が溢れ出した。
「やっぱり、私には社長なんて無理なの。もう嫌!もう辞めたいよ!」
誰も、何も言わなかった。しばらくの間、雪乃の泣く声だけが事務所に響いた。
沈黙を破ったのは正子だった。
「私は倉庫に戻るよ。みんなに状況を説明してくる」
立ち上がった正子が、雪乃を見下ろした。
「社長、私は泣いてるあんたなんか見たくないよ」
顔を上げた雪乃に、正子が厳しい言葉を続けた。
「確かにあんたはずっと苦労していた。今回の事件で会社がどうなるかも分からない。だけどね、あんたは社長なんだ。涙なんか見せるんじゃない。それが出来ないんなら辞めちゃいな。その方がさっぱりするよ」
正子が事務所を出て行った。その背中を見送りながら、睦実がため息をついた。
「雪乃、あなたは社長室に戻った方がいいわ。頭を冷やして、この先の事をしっかり考えてきなさい」
ぼんやりとしている雪乃に向けて、睦実が言葉を続けた。
「あなたがこのまま会社を続けるって言うんなら、私は何だってする。だけどもし、社長である事から逃げたいのなら。その時は止めない、好きにしなさい」
美鶴が睦実の腕をつかんだ。
「睦実さん、そんな突き放すような言い方ってひどいよ!」
「雪乃が決めなきゃいけないの。私達には口を出す権利がないのよ」
睦実がきっぱりと答えた。
「この件で一番苦労するのは雪乃なの。だから自分で選ばなきゃいけない。逃げるのか、戦うのか。それを決める権利は、雪乃にしかないの」
言葉を切った睦実が、自分の机に戻って行った。
助けを求めるように、美鶴が田辺に目を向けた。だが、田辺には何も言えなかった。正子と睦実の言葉が、とても正しいと思えたからだった。
雪乃が静かに立ち上がり、社長室に向かった。誰の眼も見ようとはしなかった。
次の日、会社に現れた雪乃はとても穏やかだった。しかし、田辺にはその落ち着きがとても不自然に見えた。この時の雪乃は、穏やかで落ち着いていて、そして冷たかった。
外回りのために事務所を出ようとした田辺は、雪乃に呼び止められた。
「田辺君、今日は私が外回りに行きます」
「え?」
振り向いた田辺から、雪乃が小さく眼を逸らした。
「例の在庫の件をもう一度頼んで来ます。田辺君はこのまま待機してて下さい」
田辺は、冷静な声で答えた。
「社長、あれを売りさばくのは無理です。お得意先にも損害を与えてしまいます」
「分かってます。だから、半値以下で交渉してみるつもりです」
「半値以下だなんて無茶ですよ。大損じゃないですか」
「どっちにしろ、うちはもう損をしてます。だったら、少しでも在庫を減らす努力をした方が得策です」
「だけど社長」
「田辺君、これは社長の判断よ。お任せしましょう」
田辺の言葉を遮ぎるように、睦実が口を挟んだ。声を詰まらせた田辺の横をすり抜け、雪乃が事務所を出て行った。
雪乃の背中を見送ってから、美鶴が睦実に声を掛けた。
「ねえ、睦実さん。ちょっと聞いてほしいの」
「なぁに?」
「さっきね、雪乃が前にお見合いした人から電話があったの」
田辺が口を挟んだ。
「臼井って人の事か?」
「うん」
美鶴が、田辺に頷いて見せた。
「あのお見合いの後も、臼井さんから結構しつこく電話が掛かって来てたの。でも、雪乃は全然相手にしてなかった。だけどさっきの電話はしばらく経っても切れないの。それで私、悪いとは思ったんだけど……」
睦実が眉を寄せた。
「あなたまさか、立ち聞きしたんじゃないでしょうね」
開き直ったように、美鶴が大きく頷いた。
「はい、おっしゃる通りです。その点については弁解しません。でもね、雪乃が言ってたの。『じゃあ、六時に以前行ったカフェで』って」
田辺は思わず、複雑な表情を浮かべた。
「なんだよそれ。あんなに嫌がってたのに」
「でしょ、おかしいよね?しかも待ち合わせの時間は夕方の六時だよ。カフェで会って、食事して。それで、もしかしたらそのままの流れで……」
「……ホテルにでも行くって言うのか?」
睦実が厳しい声を挟んだ。
「二人共、馬鹿な事言わないで!」
美鶴が睦実に真剣な顔を向けた。
「私だってそんな事考えたくないよ!だけど、臼井って人すごいお金持ちなんだよ」
「美鶴、あなたは雪乃がお金目当てでその人に会いに行くとでも思ってるの?」
「だけど雪乃が言ってた!『あの人、俺と結婚したらいくらでも資金援助するって言うんだよ』って。その時は雪乃、笑ってた。でも今の雪乃はいつもの雪乃じゃない!」
美鶴が、田辺と睦実を交互に見つめた。
「ねえ、二人共。雪乃が絶対に臼井さんに会いに行かないって、断言出来る?」
三人の間に、重い沈黙が走った。
しばらくして、睦実がため息をついた。
「とにかく、雪乃が帰って来るのを待ちましょう。本人に訊くのが一番早いわ」
五時を少し過ぎた頃、雪乃が事務所に戻って来た。事務所には、美鶴が引っ張ってきた正子の姿もあった。
「ただ今戻りました。社長室にいますんで、何かあったら声掛けて下さい」
そのまま通り過ぎようとした雪乃の腕を、田辺はすばやくつかんだ。
「待って下さい。お訊きしたい事があります」
「……なんでしょうか?」
雪乃が、田辺の手をそっと振り払った。
そのしぐさに戸惑いながら、田辺は言葉を続けた。
「……例の在庫の件はどうなりましたか?」
「やっぱり駄目でした。次の手を考えます」
「そう、ですか……」
俯いたまま黙り込んだ田辺を見上げて、雪乃が首を傾げた。
「あの、他にも何か?私、もう社長室に戻りたいんですけど」
「あーもう、じれったいな!田辺さん、そこどいてよ」
美鶴が田辺を押しのけ、雪乃の肩をつかんだ。
「雪乃、正直に答えて。あんた臼井さんと付き合うつもり?」
「……美鶴、何で知ってるの?」
「あんたの電話を立ち聞きしたの。ごめん、許して、もうしません」
美鶴が口早に謝った。
「それはともかく。ねえ、雪乃。どうしてあの人と付き合うの?」
美鶴の目を避けるように、雪乃が顔を背けた。
「別に理由なんてない。ただ、付き合いたくなっただけよ」
「冗談言わないで。雪乃があんな人を好きになるわけないじゃない。嫌いなのに付き合うつもり?」
「別に嫌いだなんて思ってないよ。今はそんなに好きでもないけど、もしかしたらこれから好きになれるかも知れないじゃない」
「そんなに無理に好きになる必要ないでしょ!お願い、好きでもないのに会いに行ったりしないで」
眼を逸らしたまま答えない雪乃を見て、睦実が立ち上がった。
「雪乃、あなたは会社のために臼井さんと付き合うつもりなのね」
「……そんなんじゃないよ。あの人に会いに行くのは、みんなが考えてるような理由じゃないから」
美鶴の手をそっと肩から外し、雪乃が歩き出した。その雪乃に、睦実が声を掛けた。
「待ちなさい、話はまだ終わって」
「もうほっといてよ!」
雪乃の激しい声が睦実の言葉を遮った。
「私が誰と付き合ったって、そんな事どうでもいいでしょ。例えお金が目当てであっても、睦実さんには関係ないじゃない」
「そんな理由で付き合うなんて、臼井さんに失礼でしょ」
「私、ちゃんと言ったもん!『お金がほしいからあなたと付き合ってもいい』って。それを知ってて、あの人は私を呼び出したの。だから、私はあの人の言う事をきく。それで何もかもうまく行くの!」
ぱしっとという乾いた音が響いた。睦実の手が、雪乃の頬を叩いていた。
「……あなた正気?そんな風に会社を守ったとして、誰がそれを喜ぶと思う?」
頬を押さえた雪乃が、震える声で呟いた。
「お願い、もうほっといて。私だって子供じゃないの。自分のしてる事だって、ちゃんと分かってるから」
睦実の横をすり抜け、雪乃が事務所を走り出た。その背中を、田辺はとっさに追いかけた。
「待って下さい!」
事務所を離れたところで、田辺は雪乃の肩をつかんだ。振り向いた雪乃が、泣き出しそうな表情で顔を背けた。
「本気で……、行くつもりですか?」
「行くよ。自分で決めた事だもん」
眼を逸らしている雪乃に苛立ち、田辺は肩を持つ手に力を込めた。
「何考えてるんですか!このままあいつに会いに行ったらどういう事になるのか、本当に分かってるんですか?」
「あの人と一晩過ごす事になるんでしょ。ちゃんと分かってるから」
「好きでもない男とそんな事したら駄目ですよ!」
訴えるように、田辺は言葉を続けた。
「もっと自分を大切にして下さい。会社の事より、まず自分の事を考えて下さいよ」
「私、考えたよ。ちゃんと考えて決めたの」
雪乃が顔を上げ、きちんと田辺に目を向けた。
「私って本当に情けない奴だけど、それでも会社のトップとしてのプライドがあるの。みんなの生活を守らなきゃいけないって気持ちもある。会社を守るためなら、私は土下座だって何だってする。でも、臼井さんは土下座なんて求めてない。あの人が求めてるものは」
雪乃が声をつまらせた。
「……だから、私はあの人に会いに行くの。待ち合わせして、食事して。そのあとどこに連れて行かれてもいい。会社を救えるんならそれでもいいの」
話を聞きながら、田辺は雪乃の意志を痛いほど感じていた。それでも諦め切れず、すがるような思いで雪乃を見つめた。
「もし俺が、一人の男として行くなと言っても、あなたの気持ちは変わりませんか?」
眼を伏せた雪乃が、苦しげに呟いた。
「……ごめんなさい」
力が抜けたように、田辺は雪乃の肩から手を下ろした。
泣き出しそうな声で、雪乃が言葉を続けた。
「引き止めてくれてありがとう。それから、色々助けてくれた事も。私、田辺君の事好きになって本当によかった。私にとってすごく素敵な、最後の恋だった」
俯いたままでいる田辺の顔を、雪乃が覗き込んだ。
「ねえ、田辺君。一つ、お願いしてもいいかな?」
無言で顔を上げた田辺に向かって、雪乃が小さく呟いた。
「一度だけ、キスして」
まっすぐに自分を見上げている雪乃を、田辺はしばらく見つめていた。そして再び肩に手を置き、そっと唇を重ねた。
「……ありがとう」
穏やかな笑顔を浮かべ、雪乃が少し後ろに下がった。
田辺の手が届かないところまで来て立ち止まり、雪乃が小さく手を振った。
「さよなら、田辺君」
そのまま背を向けて、雪乃は立ち止まる事なく走り去って行った。