事務所に戻った田辺に、美鶴が駆け寄った。
「田辺さん、雪乃は?」
無言のままでいる田辺の腕を、美鶴が強くつかんだ。
「どうして止めないの!雪乃を止められたのは田辺さんだけなんだよ」
「社長が自分で決めたんだ。俺には止められない」
「……何言ってるの?このままじゃ、雪乃は臼井のものになっちゃうよ。それでもいいの?」
「いいわけないだろ!」
田辺は思わず声を荒げた。
「だけど俺にはこの会社を救う手がないんだ。何もしてやれない俺に止める権利なんてないんだよ!」
苦しげな田辺の声を聞いて、美鶴が口をつぐんだ。
重苦しい空気を破って、正子が言葉を発した。
「そうとも限らないよ。あんたにも出来る事がある」
田辺は正子に眼を向けた。しっかりと視線を受け止めている正子を、田辺はすがるような思いで見つめた。
「教えて下さい。俺に何が出来るんですか?」
「田辺君、あんた今から茅乃さんに会っておいで」
「……どういう事ですか?」
「実はね、茅乃さんはかなりの資産家なんだよ。元々裕福な家の出だし、何よりも仕事が出来る人だからね。あの人なら、資金を援助出来るはずなんだ」
言葉を切った正子がため息をついた。
「だが、雪乃があの人に頭を下げる事はないだろう。それに、茅乃さんも自分から援助しようとはしないはずだ。あの人はこの会社に関わりたくないんだよ」
美鶴が口を挟んだ。
「でも、雪乃が危ないんだよ。事情を話せば分かってくれるかも!」
「そうかも知れない。でも、私は怪しいと思うね。茅乃さんは雪乃に似て強情な人だから。だが突破口はある。茅乃さんと先代が離婚した原因なんだけどね、先代の昔の恋人にあるんだ」
「真由美さんという人ですね」
「ああ」
正子が頷いて見せた。
「茅乃さんは、先代に疑いの気持ちを持っていたんだよ。自分と結婚した後も、真由美さんの事を思い続けてるんじゃないかってね」
「なるほど……」
小さく呟く田辺を見ながら、正子が言葉を続けた。
「結局、気持ちの行き違いが修正される事はなかったんだろうね。その後すぐ、二人は離婚した。だがね、茅乃さんは先代の事が嫌いで別れたんじゃないと思うんだよ。たぶん、真由美さんに対する意地みたいなものが原因じゃないかと思うんだ。だから、その辺を責めればなんとか落ちるんじゃないかね」
「……その辺のところって?そこをはっきりしてくれないと、責めようがないんですが」
田辺の問いを、正子があっさりと受け流した。
「そんな事までは知らないよ。茅乃さんにぶつかればきっと分かるだろう。自分で答えを見つけておいで」
美鶴が、田辺に向かって身を乗り出した。
「そうよ、とっとと行って来て!」
「簡単に言うなよ。一度しか会った事のない人に、そんなプライベートな事訊けるわけないだろ」
事の成り行きを見守っていた睦実が、ふと立ち上がった。
「田辺君」
「はい」
呼び掛けられて、田辺は睦実に顔を向けた。
静かに歩み寄った睦実が、田辺の眼をまっすぐに見つめた。
「私ね、初めて会った時からあなたの事が好きだったの」
「……え?」
突然の事に、田辺は声を失った。真剣な表情で、睦実が言葉を続けた。
「雪乃の事を心配しているあなたを見るの、すごくつらかった。今だってそうよ。雪乃の事はもちろん助けてあげたい。でも、あなたが雪乃のために何かをするところなんて、見たくないの」
唖然としていた美鶴が、我に返ったように口を挟んだ。
「ちょっと、どういうつもりですか!こんな時に何言い出すの?」
「仕方ないでしょ、好きなんだもの」
美鶴のとがめるような眼を、睦実がしっかりと見返した。
「自分勝手だって事は分かってる。でも、誰かを好きになった時ってみんなそうでしょ。自分とその人の事しか見えなくなる。人の迷惑なんて、考えられなくなるの」
睦実が再び田辺を見つめた。
「田辺君は雪乃を止めなかった。茅乃さんに会いに行く事も躊躇してる。それって、雪乃に対して本気じゃないからでしょ?」
激しく戸惑いながら、田辺はかろうじて答えた。
「俺は、常識的に考えてるだけです」
「……常識?」
呟いた睦実が、一瞬目を伏せた。
「そんなもの、どうだっていいじゃない!」
再び顔を上げ、睦実が田辺を睨みつけた。
「もっと自分勝手になって!他の事なんか考えないで、雪乃を守る事だけ考えてあげてよ!」
きつく睨みつけていた睦実の眼が、ふと力を失った。
「……お願い、雪乃を守って」
俯いた睦実の眼から、涙がこぼれ落ちた。
「こんなの嫌なの……。雪乃の苦しむところなんて、もうこれ以上見たくない」
「睦実さん……」
俯いている睦実を見つめながら、田辺は小さく呟いた。声を出さずに泣いている睦実の肩に、田辺はそっと手を置いた。
「すみませんでした。俺がしっかりしなきゃいけないのに、あなたに嫌な役をさせてしまって」
「……ううん、いいの」
睦実が首を振った。
「この借りは、倍にして返してもらうから」
睦実の言葉を聞いて、田辺は久しぶりに笑顔を浮かべた。
「分かりました。いつか必ずお返しますよ」
美鶴が、少し遠慮がちに口を挟んだ。
「田辺さん、助けに行く気になったんなら早くして。もうすぐ六時になっちゃうよ」
「分かった。じゃあ、俺は社長を見つけてから茅乃さんのところへ行くよ」
田辺の言葉を聞いた睦実が、涙を拭ってからきりっと顔を上げた。
「それじゃ駄目よ。お金の都合がついてから雪乃をつかまえなきゃ意味がない。田辺君は先に茅乃さんを説得して」
「でも、社長をあのままにしておくわけに行きません」
「分かってる。私達が雪乃を探し出しておくから。話がついたらすぐに連絡して」
「なるほど、分かりました。じゃ、くれぐれも社長をお願いします」
一言を残して、田辺は事務所を走り出た。
ロッカーから荷物を取り出しながら、睦実が美鶴に眼を向けた。
「さあ、急ぎましょう。二人が待ち合わせの場所から離れたら面倒よ」
「あ、はい」
美鶴が慌ててコートに手を掛けた。
黙ってコートをはおりながら何か迷ったそぶりを見せていた美鶴が、少ししてから睦実に眼を向けた。
「……ねえ、睦実さん」
「なぁに?」
休む事なく荷物をまとめている睦実を眼で追いながら、美鶴が思い切ったように言葉を続けた。
「あの……、さっきのあれってもしかして」
「美鶴」
ばたんとロッカーを閉めながら、睦実が美鶴の言葉を遮った。
「それ以上言ったら許さないからね」
「……失礼しました」
答えた美鶴が、視線を逸らしながら呟いた。
「なんか今日の睦実さんってめちゃくちゃ恐いよぉ」
「ちょっと、何ぶつぶつ言ってるの」
眉を寄せた睦実が、美鶴の腕を強くつかんだ。
「さっさとしなさい。駅まで走るからね」
「……うっそぉ、きつ過ぎるぅ」
小さく苦情を言いながらも、美鶴が睦実の後について走り出した。
一時間後、田辺は茅乃の会社の応接室にいた。
茅乃にはタクシーの中で連絡を取った。仕事に追われているらしい茅乃の様子に気がつきながらも、田辺は強引に時間を作ってもらった。
応接室に入って、すでに一五分経っていた。待ち切れずに席を立った瞬間に、ドアが開いて茅乃が現れた。
「ごめんなさい、随分お待たせしちゃったわね。ちょっと今立て込んでるものだから」
とっさに、田辺はいらついた表情を隠した。
「いえ、こちらこそ突然すみません。お仕事の方は大丈夫ですか?」
「ええ、少しの間部下に任せてきたわ。実は今、緊急に海外で売りたいものがあって日本中を探してるのよ」
少し疲れた様子を見せている茅乃にすまないと思いながらも、田辺は早速本題を切り出した。
「茅乃さん。俺は今日、雪乃さんの事で伺ったんです。彼女は今、追いつめられてます」
「追いつめられてる?それは会社の経営が苦しいって意味かしら」
「ええ」
田辺は大きく頷いた。
「実は、社員の一人がまったく売れない商品を大量に発注してしまったんです。しかもメーカーが倒産してしまって返品も出来ません。雪乃さんは、金の工面のために好きでもない金持ちの男と付き合おうとしています」
突然の田辺の話を、茅乃が唖然とした顔で聞いていた。
「それで、茅乃さんにお願いしたいんです。うちの会社に資金を援助して下さい。そうすれば、雪乃さんは犠牲にならずに済みます」
「……資金援助?」
呟いた茅乃が、正気を取り戻したように立ち上がり、窓の外に眼を向けた。
「それは無理なお話ね」
田辺は、信じられない思いで茅乃を見つめた。
「……あなたは、雪乃さんを見殺しにつもりですか?」
「そうじゃないわ」
茅乃が静かに首を振った。
「でもね、私はこれまで何度も資金援助を申し出ていたの。だけどあの子はいつでも断って来た。今回だって、私に頼むより嫌いな男と付き合う方を選んだんでしょ?それなのに、今更私の援助を受け入れると思う?」
「ちょっと待って下さい。あなたはそんな理由で雪乃さんを見捨てる気ですか?」
とがめるような田辺の言葉に、茅乃がするどい眼を向けた。
「そんな理由だなんて軽く言わないで!娘に拒まれた母親の気持ちなんて、あなたに分からないでしょ?」
「確かに、俺にはあなたの気持ちが分かりません。でも、雪乃さんの気持ちなら分かるような気がします」
睨みつける茅乃の眼を、田辺は臆する事なく受け止めた。
「雪乃さんは、ずっと母親のあなたと離れて暮らしていました。そして、父親にも先立たれた。きっとものすごく寂しかったはずです。それで、会いに来ないあなたに複雑な気持ちを抱いたんでしょう。それって、すごく当然な話だと思いませんか?」
「それは……」
眼を逸らして口ごもる茅乃に向けて、田辺は静かに言葉を続けた。
「茅乃さん、あなた達の間には二つの問題があります。そのうちの一つはすぐに解決するはずです。あなたは、先代の葬式に来てますよね」
ふと、茅乃が眼を泳がせた。
「……ええ」
「どうしてその時中に入らなかったんですか。雪乃さんが一人で悲しんでいるって事は、あなたが一番分かっていたはずでしょう?」
「恐くて入れなかったのよ!」
動揺したように、茅乃が声を荒げた。
「だってあの人が危篤だった時、私はあの子の側にいてあげられなかったんだもの!もう、絶対に許してもらえないと思ったの」
「それは海外にいたからであって、あなたに非はありません」
茅乃の言葉を、田辺はあっさりと受け流した。
「あなたがきちんと棺を見送った事を知れば、雪乃さんは理解してくれるはずです。それよりも重要な問題は、あなたが八年間会いに来なかった事です。一体どうしてですか?」
眼を逸らした茅乃が、無言のままで田辺に背中を向けた。その背中を見つめながら、田辺は茅乃の言葉を待った。
「……あの子を見ると、どうしてもあの人の事を思い出してしまうの。それが辛くて」
田辺は静かに尋ねた。
「先代を思い出したくなかった。その理由は、真由美さんですね」
「そうよ。私は、あの人の心に真由美がいる事が許せなかったの」
覚悟を決めたように、茅乃が田辺に向き直った。
「私達三人は、学生時代に同じ時を過ごした。私の心に、真由美はずっと残ってる。でも、あの人は別よ。私はあの人の事を一人の男として愛していたの。その人の心の中に、私以外の女性がいるなんて我慢出来なかった」
茅乃を見つめながら、田辺はどう話を進めるべきか迷っていた。茅乃の気持ちは痛いほど分かる。同時に、田辺は先代の気持ちも理解する事が出来ていたからだ。
「茅乃さん、俺は今からすごく自分勝手な事を言うかも知れません。でも、少し聞いていて下さい」
前置きしてから、田辺は話を始めた。
「男って、過去を引きずるんですよ。新しい彼女が出来ても、心のどこかで前の彼女の事を引きずる。そんなところがあるんです」
「……何よそれ」
茅乃が眉をひそめた。
「冗談じゃないわ。そんな中途半端な気持ちのままで新しい人と付き合うべきじゃない。そんなの、相手に対する裏切りじゃない」
「いや、裏切りじゃありません」
田辺は、きっぱりと首を振った。
「心のどこかで引きずっていても、その人の事を愛しているわけじゃない。ただ、本当にその人を好きだった時の自分の気持ちを忘れないだけなんです」
「……どういう意味だか分からない」
茅乃が首を振った。
「……そうですよね。ちょっと待って下さい。今、考えをまとめますから」
茅乃から眼を逸らし、田辺は俯いた。
しばらくの間床に眼を落としていた田辺は、少し迷いを見せながらも顔を上げた。
「先代は、きちんとあなたの事を愛していたんです。それでも心のどこかに真由美さんが残っていた。それを知れば、確かにあなたは傷つくでしょう。それは認めます。でもね、男は女性のように心の切り返しがうまく出来ないんですよ」
「心の切り返しって、真由美から私への?」
「ええ」
田辺は大きく頷いた。
「先代は、心から愛していた人を突然失ったんです。男って不器用だから、行き場の失ったその思いを持て余すんです。たくさん時間を掛けなきゃ、忘れられないんです」
茅乃が、真剣な表情で田辺を見つめていた。その眼から逃げる事なく、田辺は一言ずつ慎重に話を続けた。
「あなた達二人が付き合い始めた時点で、先代はあなたの事を本当に好きだったはずです。例え真由美さんが残っていたとしても、先代の心の中心にいたのは茅乃さん、あなただったんです」
言葉を切った田辺は、全ての思いを込めて茅乃を見上げた。
田辺を見つめていた茅乃が、ふと眼を逸らした。再び窓の外に眼を向け、そのまま動きを止めた。
そして、二人の間に長い沈黙が流れた。
しばらくして、茅乃が大きく息をはいた。
「……私、少しだけあの人を理解出来たかも知れない」
祈るような思いで、田辺は茅乃の言葉の続きを待った。
「私にとって、あの人はとても大切な人だった。二人で……。ううん、雪乃が生まれてからは三人で、たくさんの時間を過ごしたわ。大切な人だから、たぶんこの思い出は一生消えない。だから、あの人の心に真由美がいた事も当然かも知れない。だって、あの人は真由美を愛した事があるんだもの」
「その通りです」
茅乃の様子を見守りながら、田辺は頷いて見せた
「結局、先代の中で真由美さんは過去でしかなかったんです。あの時の先代にとっては、茅乃さんへの気持ちが一番大切だったはずですよ」
「そうかも知れないわね」
小さく笑った茅乃が、少しすねたような表情を浮かべた。
「でも、一つだけ文句を言わせてもらうと。真由美の写真を飾るってのはあんまりだと思わない?私の写真は飾ってなかったくせに」
「ええ、本当に先代は気が利かないですよね」
「そうなの、あの人は本当に気が利かない人だった。デート中なのに他の女の子を目で追ったり、私の前で女友達の事をものすごく誉めたりね」
茅乃が、くすくすと笑い出した。
「だけど、私はあの人のそんなどうしようもないところも含めて好きだったような気がする。腹を立てながらも、そんなあの人の事をとても愛しいと思っていたんだと思う」
茅乃の笑顔を見て、田辺は微笑を浮かべた。
「……先代は、本当に幸せな人だったんですね」
「そうだったとしたらいいんだけど」
思いをめぐらすような表情を浮かべていた茅乃が、ふと眼を床に落とした。
「雪乃……」
苦しそうな表情で、茅乃が言葉を続けた。
「私、本当に雪乃を助けたいの。だけどあの子って私に似て頑固だから、このままずっと受け入れてくれないかも知れない」
青ざめた顔で俯く茅乃に、田辺は笑顔を作って見せた。
「大丈夫ですよ。雪乃さんは、あなたに似て柔軟な考えを持っています。あなたの気持ちを理解出来れば、きっと受け入れると思いますよ」
「……そうね。あの子なら、きっと分かってくれるはずだわ」
自分に言い聞かせるように呟いて、茅乃は顔を上げた。
「お願い、雪乃に伝えて。そんなばかばかしい付き合いはやめなさいって。私の援助を受けるように説得して」
「分かりました、必ずそうします」
立ち上がった田辺を、茅乃が呼び止めた。
「あ、ごめんなさい。参考までに教えて。その売れない在庫って何?」
ドアに向かいながら、田辺は振り返った。
「少し前にはやってた、じゃがらむっていうキャラクターのぬいぐるみです」
「……じゃがらむ?」
一瞬唖然とした表情を浮かべた茅乃が、いきなり笑い出した。
不思議そうな表情でいる田辺に気がついて、茅乃が笑いをこらえながら説明した。
「田辺君、この問題はあっという間に解決するわ。そのぬいぐるみ、うちが全て買い取らせて頂きます」
「……冗談でしょ」
田辺はぽつりと呟いた。
「あれはもう、売れない商品ですよ」
動ずる事なく、茅乃が答えた。
「あのね、田辺君。私が始めに海外で売りたいものがあるって言ったでしょ。それがじゃがらむなの」
意味が分からないまま黙っている田辺に、茅乃が微笑みを見せた。
「あのアニメね、ちょっと前から海外で放映してて、すごい人気なの。で、調査を始めた私達は国内のメーカーがぬいぐるみを持ってるって知ったの。でも、会社はとっくに倒産していた。で、そのぬいぐるみの行方を必死に探していたのよ。まさかそれが、雪乃の会社に眠っているなんてね」
やっと話が飲み込めた田辺は、ぼんやりとした笑顔を浮かべた。
「世の中って、不思議な事がありますね」
「本当にそうね」
茅乃が、ほっとしたように呟いた。
「これで雪乃は助かる。だって、これは正規の商取引だもの。断る理由なんて、何もないはずよね」
笑顔を浮かべていた茅乃が一転し、真剣な顔を田辺に向けた。
「私は契約書の準備をしておく。雪乃の件に片がついたらここに戻って来て。早急に契約してしまいましょう」
「分かりました」
再びドアに向かおうとした田辺に、茅乃が深々と頭を下げた。
「どうか、雪乃をよろしくお願いします」
「……任せて下さい。絶対、無事に連れ戻します」
一瞬浮かべた笑顔を消して、田辺は部屋を走り出た。