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雪の降る空の下

 会社から歩いて二〜三分のところに、大きな公園があった。

 子供の遊具などはなく、小高い丘になった芝生の上を遊歩道が縫うように通っていた。

 時刻は昼の一二時を過ぎたところだった。公園にはたくさんの会社員が来ており、まばらに設置してあるベンチの上で思い思いにくつろいでいた。

 昼食を食べ終えた田辺は、一人で芝生の上に寝転んでいた。いつもは事務所で昼休みを過ごしていたのだが、今日は何故か門脇が頻繁に事務所を出入りするので居心地が悪かったのだ。

 田辺の手には茅乃の名刺があった。名刺には有名な商社の名前が書いてあり、茅乃には専務の肩書きがついていた。

 田辺はため息をついた。

 どうして茅乃にあんな事を言ったのか、自分でもよく分かっていなかった。

 雪乃と茅乃の間にある問題は大きい。それは、昨日の二人を見れば分かる事だ。自分に何が出来るのか、自分はどうしたいと思っているのか。昨夜から、田辺はずっと考え続けていた。

 ふいに、田辺の顔の上に影が差した。

「お待たせ、田辺君」

 自分を覗き込んでいる睦実を見て、田辺は慌てて起き上がった。

「あ、すみません。こんなところまで呼び出しちゃって」

「ううん、全然」

 田辺の横に腰を下ろしながら、睦実が笑顔を向けた。

「で、話って何かな?」

「ああ、えっと。これなんですけどね」

 田辺は、茅乃の名刺を睦実に差し出した。

 名刺を受け取った睦実が、不思議そうな顔をして田辺を見つめた。

「これって雪乃のお母さんの名刺じゃない。どうして田辺君が持ってるの?」

 田辺は、昨夜の出来事を睦実に話した。

「ふーん、そっかぁ」

 話を聞き終えた睦実が田辺から眼を逸らし、小さな声で呟いた。

「……期待して損しちゃった」

 睦実の声が聞こえなかったらしい田辺は、怪訝な顔で睦実を覗き込んだ。

「え、何ですか?」

「ううん、何でもない。気にしないで」

 首を振った睦実が、改めて手元にある茅乃の名刺に眼を向けた。

「やっぱり、雪乃は茅乃さんの事を怒ってたのね」

「やっぱりって睦実さん、気が付いてたんですか」

「うん。だって私、お葬式を手伝いに行ったから」

 睦実が、思いだすような表情で空を見上げた。

「雪乃、誰に何を言われても『大丈夫です』の一点張りだった。だけど大丈夫なわけないのよね。あの子は、先代の事を本当に大事に思ってた。それなのに茅乃さんからは何の連絡もない。頭に来てもおかしくないと思う」

「確かに俺も、その話を聞いた時はひどい人だと思いました。でも、昨日の様子を見てると、なんか違うような気がするんです」

「違うって、どういう意味?」

「うまく言えないけど、俺には茅乃さんがそんなにひどい人には見えないんですよ」

 田辺は、もどかしそうに頭をかいた。

「社長を見ている目は、すごく悲しそうだった。それに『雪乃をよろしくお願いします』っていう言葉には、しっかりと気持ちがこもっていたんですよ。嘘とか見栄で言っているんじゃないと思うんです」

「ふーん……」

 田辺を見つめながら、睦実が首を傾げた。

「じゃあ、お葬式の時に私が見たのは、やっぱり茅乃さんだったのかな?」

 田辺は、驚いたように睦実に顔を向けた。

「茅乃さんの事を見たんですか?」

「うん……。でも私、茅乃さんの顔をしっかり覚えてるわけじゃないから、あまり自信ないんだけどね」

 前置きをしてから、睦実が話し始めた。

「出棺の時、私は少し離れたところにいたの。その時にね、遠くの方で人目を避けるように女の人が立ってた。なんだか気になって見てたら、泣いてるみたいだった。結局その人すぐに帰っちゃったんだけど、何だかすごく茅乃さんに似てるような気がしてたんだ」

「……なるほど」

 答えながら、田辺は難しい顔で地面を見つめていた。やがて、小さく頷いてから睦実に眼を戻した。

「それはやっぱり茅乃さんだと思います。あの人は、一度夫婦だった人の葬式に出ないような、そんな人にはとても見えません」

「うん、確かに。私の記憶に残ってる茅乃さんも田辺君の受けた印象と似通ってる」

「だけどね、そういう人だからこそ、俺はすごく不思議に思うんですよ」

 再び、田辺は地面に眼を落とした。

「茅乃さんは、どうして八年間も社長に会いに来ようとしなかったんでしょうね」

 呟いてから、田辺は口をつぐんだ。 

 考え続けている田辺を見て、睦実がふいに笑った。

「田辺君、あんまり悩むとはげるよ」

 ぎくりとしながら、田辺は頭に手をやった。

「ちょっと、睦実さん。やめてくださいよ。男はその辺にデリケートなんですから」

「へー、そういうもんなの?」

 からかうように答えながら、睦実が立ち上がった。

 大きく伸びをした睦実が、腕を下ろしてから田辺に眼を向けた。

「ねえ、田辺君。あなたが雪乃の事を心配して悩んでるのは、すごく素敵な事だと思う。でも、ここで悩んでもきっと何にも分からないよ」

「それは、確かに……」

「でしょ?田辺君に今出来る事は、雪乃の側にいてあげる事だけなんじゃないのかな。だって、茅乃さんにそう約束したんだよね」

「ええ」

 大きく頷いた田辺を見て、睦実がふと眼を逸らした。

「雪乃はね、つらいとか苦しいとかを人に言えない子なの。どうしても周りに遠慮して、一人で耐えようとする。みんな、あの子を好きで、支えたいって思ってるのにね」

 田辺は、睦実の横顔に寂しげな表情を見つけた気がした。

「たぶん、私達にはあの子の心の奥までは行けないのね。もし行ける人がいるとしたら、それはあの子が本気で好きになった人で、あの子の事を本当に大切に思ってくれる人だけだと思う」

 睦実が、穏やかな眼を田辺に向けた。

「田辺君。雪乃はあなたの事、本気よ」

 睦実の言葉に、田辺は一瞬声をつまらせた。

「……睦実さん、俺は社長を守ってあげたいとは思う。でも、社長の事を好きなのかどうかって事は、正直言ってよく分からないんです」

「いいんじゃない、分からなくても。分からなくても気になるし、守ってあげたくなる。そういうのって、本当に自然な気持ちだと思うよ」

 睦実がその場にしゃがみ込み、田辺の顔を覗き込んだ。

「分からないままでもいいから、田辺君は自分の気持ちに素直に従うべきだと思う。あの親子が離れ離れになるのが嫌なら、二人の仲を取り持ってあげればいいじゃない」

 言葉を切った睦実が、返事を待つように田辺を見つめた。

 しばらくしてから、田辺はまっすぐに睦実に眼を向けた。

「なんか俺、吹っ切れたような気がします。考える前に、とにかく思った通りに行動してみますよ。話聞いてくれてありがとうございました」

「いえいえ、どういたしまして。じゃあ私、もう行くね」

 立ち上がって背中を向けた睦実が、歩き出した足をふと止めた。

「……ねえ、田辺君」

「はい、なんでしょう」

 振り返った睦実が、怪訝な表情で自分を見上げる田辺を見つめた。やがて、小さく笑いながら首を振った。

「なんでもない。やっぱりいいや」

「え、ちょっとそりゃないですよ。気になるじゃないですか」

 少し不満げな顔の田辺に、睦実が笑顔を向けた。

「そう?じゃ、教えてあげる。あなたが今座ってるとこね」

 睦実が、田辺の足元を指差して見せた。

「犬のお散歩コースなの。その辺でよく頑張ってるみたいよ」

「え!そうなんですか?」

 反射的に立ち上がった田辺を見て、睦実が涼しい顔で答えた。

「なぁんてね。この公園、ペットの散歩禁止なの。じゃ、お先に」

 くすくす笑いながら歩いて行く睦実の背中を、田辺はしばらくぼんやりと見送っていた。

 倉庫の奥にいた田辺は、ドアが開く音に気がついて顔を上げた。

 時刻はもう、七時を回っていた。

 ノートを持った田辺は、かれこれ三時間ほど倉庫にこもっていた。最近ずっと外回りに行っていた分、まとめて在庫のチェックをしていたのだ。

 パートのおばさん達はとっくに帰宅している。睦実と美鶴も五時には帰っているはずだ。気になった田辺は、棚の隙間から倉庫の入り口に目を向けた。

 雪乃と門脇が、二人並んで歩いていた。

「お話って、なんですか」

 少し緊張したような雪乃の声が、静まり返った倉庫に響いた。

「まあ、そう急がなくてもいいでしょう。私の部屋でお茶でもどうですか。おいしい紅茶が手に入ったんですよ」

「いいえ、それはまたの機会で。出来れば、早く本題に入って頂きたいんですが」

「……そうですか、分かりました」

 足を止めた門脇が、雪乃に向き直った。

 嫌な予感がした。

 田辺は、二人に見つからないようにドアの近くまで移動した。

「これからお話する事は、社長と僕の両方にとって、悪い話じゃないと思うんですがね」

 田辺の視線の先で、門脇が薄い笑顔を浮かべながら雪乃を見つめていた。

「社長、僕と結婚しませんか?」

 田辺は思わず、持っていたノートとペンを落としそうになった。

 声が出ないのか、雪乃は黙ったままだ。

「僕はね、前から社長が可哀想でならなかったんですよ。先代がなくなってから、まだ若いのにとても苦労している。それを見てるのがつらくてね」

 門脇が低い声で笑った。

「それに、社長が若いから従業員もなめて掛かっている。あの事務員達は毎日無駄話ばかりしてるし、パートの連中は目を離すとすぐにさぼろうとする。新しく入ったうさんくさい営業も知識がまるでない。あれじゃ、得意先でもろくな話をしてないに決まってる」

 門脇の記憶には、田辺が毎日勉強している姿がまったく残っていないらしい。

「だが、僕と結婚すれば全て解決する。あなたは家庭に入ってのんびり家事をしていればいいし、僕も従業員に的確な指導が出来る。なあ、社長。考えてみてくれないかな」

 門脇が言葉を切った。雪乃の返事を待っているらしい。  

 二人の沈黙が、田辺にはとても長い時間に感じられた。

「……お話は、それだけですか?」

 雪乃の硬い声が響いた。

「だったら私、失礼します。もう今日は帰宅したいんで」

「社長、僕はまだ返事を」

「返事?聞かなくたって分かるでしょう!」

 雪乃が勢いよく門脇の言葉を遮った。

「ねえ、門脇さん。どうして私が、私を哀れんでいるあなたと結婚するの?どうして大切な仲間を馬鹿にする人と結婚しなきゃいけないの?」

 雪乃の迫力に飲まれたように、門脇が口をつぐんだ。

「確かにあなたは仕事ができる人です、でもね!会社って、社長って、それだけじゃ駄目なんです。もっと職場に溶け込んで、みんなと一緒に頑張らないと駄目なんです!」

 二人の間に再び沈黙が走った。しかし、今度の沈黙は危険な空気をはらんでいるように感じられた。

「……黙って聞いてれば偉そうな事言うなぁ、社長さん」

 門脇が呟いた。

「おまえに何が分かるっていうんだ。たかが一年程度社長と呼ばれて、もうそんなに偉そうな口を利けるようになるとは恐れ入るよ。人に助けられてばかりのくせに」

「確かにおっしゃる通り、私はみんなに支えられてここまでやって来られました。だからこそ、誰にもみんなの悪口を言ってほしくない。田辺君だって……」

 雪乃が、少し言葉をつまらせた。

「田辺君だって頑張ってくれてる。今の時点でやれる事は全てやってくれてる。それだけで、十分じゃないですか」

「……随分とあいつをかばうんだな」

 強張った表情の門脇が、乾いた声で笑った。

「やっぱり、おまえはあいつに惚れてるわけだ。まあ、見てればすぐに分かるがな。もう会社中の人間が知ってるんじゃないか。あのパート達のいい話のネタだろうな」

 笑いを止めた門脇が、いきなり雪乃の両肩をつかんだ。

「社長が聞いてあきれるな!社員に惚れてる社長がどこにいる?所詮おまえはその程度の器でしかないんだよ。そんな浮ついた気持ちでやってるんなら、社長なんてやめちまえ!」

 門脇が両手を振り払った。雪乃の体が倉庫の床を滑り、勢いよく壁にぶつかった。更に雪乃に歩み寄ろうとしている門脇を見て、田辺は大きく足を踏み出した。

「やめろ!」

 殴りつけられた門脇が、そのまま音を立てて床に崩れ落ちた。

 田辺は雪乃に目を移した。真っ青な雪乃が、震えながら田辺を見上げていた。

 雪乃に歩み寄り、田辺は目の前にしゃがみ込んだ。

「……大丈夫ですか」

 田辺の問いに、雪乃がかろうじて頷いた。

 そっと肩に触れると、雪乃の体がぴくりと揺れた。少し戸惑いながらも、田辺は両手で雪乃の体を支え、静かに話し掛けた。

「もう少しだけ待っててください。すぐに話をつけますから」

 言葉を切った田辺の耳に、低い笑い声が聞こえて来た。

 ゆっくりと立ち上がった田辺を睨みつけながら、門脇が歪んだ笑いを浮かべていた。

「いい登場の仕方だな、田辺。おまえ、いつからそこにいた?」

 冷静な顔を作りながらも、田辺の声は怒りで震え出しそうだった。

「最初からだ。今日はずっと倉庫にいたんだよ」

「そうか、気が付かなかったよ。今日は何も聞いて来なかったじゃないか。いつもはうるさいくらいにまとわりついて来るのに」

「もう、あんたに聞く事なんて何もない。あんたの顔なんか見たくもないよ」

 門脇が乾いた声で笑い出した。

「おお、そうか。そりゃあ良かったなぁ。おまえの望みはすぐにかなうよ。俺はこの会社を辞めるからな」

 その言葉を聞いて、雪乃が顔を上げた。

「……会社を、辞める?」

「当たり前だろう。こんな仕打ちをして残ってもらえるとでも思っていたのか」

 雪乃に眼を移し、門脇が説き伏せるように言葉を続けた。

「なあ、俺が辞めたら困るだろう。考え直せ。今謝ればこのまま残ってやってもいいんだぞ」

 厳しい表情で門脇を睨みつけていた雪乃が、やがてゆっくりと視線を逸らし、静かな声で呟いた。

「門脇さん、今までありがとうございました。あなたがいなくてもこの会社は大丈夫です。私が、守ります」

「……そうか。じゃあ望み通り出て行ってやるよ」

 笑顔を作る余裕もないらしい門脇が、初めて二人に憎しみの表情を見せた。

「だがな、このままで済むと思うなよ。絶対に後悔させてやる。俺は、おまえらをつぶしてみせる!」

 勢いよく立ち上がり、門脇が自分の部屋に駆け込んだ。そのまま大きな荷物をつかみ出し、よろよろと背中に担いで倉庫を後にした。

 こういう結果になる事を自分でも予想していたのだろう。すでに部屋を片付け、私物を用意しておいたようだった。

 田辺は思った。門脇は悲しい男だ、と。


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