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雪の降る空の下

 忙しい毎日が過ぎ去り、一〇円玉が底をつきようとした頃、田辺はなんとか給料日を迎える事が出来た。

「はい、田辺君。おつかれ様でした」

「は!ありがとうございます」

 雪乃から封筒を受け取った田辺の手は何故か少し震えていた。その手を見た雪乃が、申し訳なさそうに田辺を見上げた。

「あのー、これって給料明細だけなんだ。うち、銀行振込だし」

「はい、分かってますよ」

「じゃあ、どうしてそんなに緊張してるの?」

「いや、銀行に入金がある事自体、ものすごくひさしぶりなもので」

「……そっかぁ」

 雪乃が、うんうんと何度も頷いて見せた。

「気の毒に……。相当追い詰められてたんだね」

「ええ、なんせここ最近、一〇円玉以外のお金を触ってませんから」

 さらりと悲しい返事をしながら、田辺は明細を広げた。手取りで二〇万円以上ある事を確認した田辺は、心の底から感動した。

 明細を手に少し震えながら立ちすくんでいる田辺に、睦実が恐る恐る声を掛けた。

「……あの、田辺君。よかったら今日、みんなで飲みに行かない?」

「申し訳ありませんが、今日は行けません」

 田辺はきっぱりと答えた。

「今日はですね、ビールを大量に買い込んでナイターを見るんです、大型テレビで。そのあと、ビデオを借りてきて徹夜で見るんです、大型テレビで」

 睦実の後ろで、美鶴が口を挟んだ。

「そんなのいつでも出来るじゃない」

 田辺はきりっとした眼を美鶴に向けた。

「いいや。俺はここ数ヶ月、それがしたくてしたくてたまらなかったのに、出来なかったんだよ。今日はなんとしてもそうする。みなさん、止めないで下さいね」

 強い意志を全身から溢れさせている田辺を見て、その場にいた誰もが口をつぐんだ。

 大型テレビと共に丸一日を過ごした次の日。

 田辺は友人とレストランで昼食を取った。失業中に何度かおごってもらったので、そのお礼をしていたのだ。

 友人と別れた帰り道、いい気分で歩いていた田辺は、ふときれいなオープンカフェに眼を止めた。

「このまま帰っても暇だし、ちょっと寄ってくか」

 呟いて、田辺はカフェに足を向けた。

 店に近づいた田辺は、植え込みにしゃがみこんでいる美鶴を発見した。

 思わず立ち止まった田辺を背にして、美鶴がしきりにカフェを覗いている。しかも、その手にはオペラグラスまで持っていた。

 美鶴の背後に忍び寄った田辺は、しゃがみこみながら声を掛けた。

「あの、もしもし?」

 振り返りもせずに、美鶴が冷たい声で答えた。

「うるさいなぁ。私、今忙しいの。声掛けないでくれる」

「いや、でも。……何してるの、ここで」

「あんたには関係ないでしょ。消えてよ」

「でも君、相当怪しいよ」

「あー、もう。うるさいなぁ!」

 美鶴がすごい形相で振り返った。

「何のセールスか知らないけど黙ってて!私は美容器具も蒲団も絵もいらないし、十分幸せだから祈ってもらわなくても結構です!」

 あまりの迫力に飛び退った田辺を見て、美鶴が怪訝な表情を浮かべた。

「あれ、田辺さんじゃない?何してるの、こんなところで。おかしいよ、いい年した大人が道端で座り込んでるなんて」

「……だから、それは俺のセリフだよ」

 答えながらも、田辺はまだ少し怯えた表情を浮かべていた。

「で、何してんの?こんなところで」

 田辺の様子に気がつく事なく、美鶴が手招きをしながら立ち上がった。

「ちょうど良かった。田辺さん、暇だよね。ちょっと付き合ってくれない?」

 田辺は、少し憮然としながら答えた。

「失礼な。暇だなんて言ってないだろう」

 美鶴があっさりと田辺の言葉を受け流した。

「どうせ家に帰ったって大型テレビでビデオ見てるだけなんでしょ。いいから黙ってついて来て」

 こっそりとカフェに入って行く美鶴に不審な目を向けながらも、田辺は大人しくあとに続いて隅の席に腰を下ろした。

 しばらく美鶴の様子を観察していた田辺は、やがて我慢し切れないように尋ねた。

「忙しそうなとこ悪いんだけどさ。そろそろ俺がここにいる意味を教えてくれない?」

 いきなり、美鶴が田辺の口を手で押さえた。

「しっ!声が大きい。あんまり目立ちたくないんだから、大声出さないで」

 むっとした顔で美鶴の手をむしり取りながらも、田辺はとりあえず声を落とした。

「大丈夫だってば。こんなにたくさん人がいるんだから、誰も俺達の事なんか気にしないよ」

 小さくなった田辺の声を確認してから、美鶴が手を引っ込めた。

「何言ってるの、こんなに可愛い子が目立たないわけないでしょ。今だって、一人でカフェにいたら絶対ナンパされちゃって大変だから、隠れてたんだよ」

「……あ、そう。そりゃ大変だね」

 理由を尋ねるのを諦め、田辺は自分で美鶴の視線を辿った。話をしている間も、美鶴はずっとカフェの一点を凝視していたのだ。

 視線の先には、雪乃がいた。同じテーブルに男が座っている。

 その男は四〇代半ばくらいだろうか。

 高級そうなセーターを、直に着ているらしい。大きく開いている胸元には当然のように太目のネックレスがあり、ゴールドな輝きを放っていた。基本的には七三である髪型の、ものすごく長い前髪を何度もうるさそうにかきあげていた。

 しばらくぼんやりと男を観察していた田辺は、ふと我に返って美鶴に顔を向けた。

「なあ、もしかして社長ってああいう男が趣味なの?」

「馬鹿言わないで、あんなキザな男!自分と比べてみなよ、まだ田辺さんの方がいい男だよ」

 田辺は思わず、しみじみと美鶴を見つめた。

「……美鶴さん、それって一応ほめてくれてるんだよね?」

「私としては、もんのすごく誉めてるつもりなんだけど」

 美鶴がきっぱりと答えた。

「あれはね、雪乃の見合い相手。臼井って名前らしいんだけど」

「……見合い?」

 ふいに、田辺の表情が硬くなった。

「へー、社長って結婚したがってたんだ」

 声の調子が変わった田辺に、美鶴が顔を向けた。

「……誤解しないでね。あれは、パートのおばさんの紹介なの。ものすごく強引に頼まれて断れなかったんだって」

 雪乃に眼を戻しながら、美鶴が話を続けた。

「ここ二〜三日、雪乃の様子がおかしかったの。でもあの子、自分から悩み事言ったりしないのよね。で、昨日飲みに行った時、睦実さんと二人で頑張って聞き出したってわけ」

「なるほどね、昨日の飲み会にはそんな意味があったのか」

 一瞬ほっとした表情を浮かべた田辺は、努めてさりげなく聞こえるように言葉を続けた。

「最初からそう言ってくれれば、俺も付き合ったのに」

「目が据わってたから言えなかったの!分かってくれたんだったら、もうしばらく付き合ってよね」

「はいはい、今日はいくらでもお付き合いしますよ」

 愛想よく答えながら、田辺は美鶴に尋ねた。

「でもさぁ、なんでこんな風に見張る必要があるのかがよく分からないんだけど。これってただの見合いだろ?」

「まあ、そうなんだけどね」

 美鶴が、困ったような表情で頭をかいた。

「相手が雪乃の事、相当気に入ってるらしいの。それは別にいいんだけど、でもどう見ても危険っぽくない?あの男」

「危険?」

 美鶴に言われて、田辺は改めて臼井に目を走らせた。

 確かに、臼井は怪しい眼つきをしていた。

 さっきから雪乃の顔を見るよりも、胸の辺りや太ももの辺りを見る回数の方が多いように見える。田辺は思わず、大きく頷いた。

「なるほど。ありゃ危険だわ」

「でしょでしょ?」

 美鶴が、久々に田辺に顔を向けた。

「で、私はあいつが雪乃に手を出さないようにこうして見張ってるわけ。これ貸してあげるから、田辺さんもしっかり協力してよ」

 眼を戻しながら、美鶴が田辺にオペラグラスを差し出した。

「……はい、分かりました」

 使うつもりはまったくなかったが、田辺は大人しくそれを受け取った。

 ふいに、臼井の携帯電話が鳴った。聞こえてくる言葉によるとどうやら仕事の電話らしい。

 テーブルに一枚のお札を置いて、臼井が立ち上がった。 

 ねっとりとした笑いを浮かべた臼井が、雪乃の肩に手を置いた。

「じゃあね、雪乃ちゃん。また電話するよ」

 隠しようもなく浮かんだ雪乃の嫌悪の表情に気がつく事なく、臼井が店を出て行った。

 美鶴が椅子を蹴って立ち上がった。

「雪乃、大丈夫?」

 男の触った肩をしきりに手で払っていた雪乃が、美鶴に顔を向けた。

「ああ、美鶴。ごめんね、見張りなんかさせちゃって。おかげですごく心強かったよ」

「いいよ、全然。私から言い出したんだし。でも良かったね。早いとこ解放されて」

「うん、仕事が入ったんだって。助かっちゃった」

 笑顔で答えた雪乃が、歩み寄って来た田辺を見て、驚いた表情を浮かべた。

「田辺君!どうしてここに?」

 なんとなく気まずそうな様子で、田辺は雪乃から眼を逸らした。

「店の前を通り掛かった時に、たまたま美鶴さんと会ったんですよ」

 美鶴が笑顔で頷いた。

「そうそう。で、私がこの店に引っ張り込んだってわけ」

 雪乃が、申し訳なさそうに田辺を見つめた。

「そっかぁ。ごめんね、田辺君にまで迷惑掛けて」

「いや、俺は別に」

 答えようとした田辺の言葉を遮って、美鶴が口を挟んだ。

「気にしないでいいよ、どうせ暇だったんだし。ね、田辺さん?」

「……まあね」

 複雑な表情を浮かべながら、田辺は美鶴を軽く睨んだ。

 ふいに、三人の間に携帯の鳴る音が響いた。慌ててバッグを漁った美鶴が、着信ボタンを押した。

「もしもし。あ、坂本君?今どこ?あ、そうなんだー。私も今外だよ。そこから結構近い。うん、あ、いいよ。じゃあ二〇分後に駅前ね。はい、じゃあ、また後でねー」

 ぴっと携帯を切りながら、もうすでに美鶴は席を立っていた。雪乃が美鶴を見上げた。

「美鶴、坂本君から?」

「うん、なんかあいつ、この近くにいるらしいんだ」

 少し照れくさそうに、美鶴が頷いた。

「ちょっとお誘い受けちゃったから行ってくるね。じゃ、田辺さん。雪乃をよろしく!」

 あっという間に店を走り出た美鶴が、最後にくるりと振り返った。

「あ、田辺さーん。あなたは、雪乃に手を出してもいいからね。私が許す」

 いたずらっぽく笑った美鶴が、二人に背を向けた。走り去る美鶴を見送りながら、雪乃が少し顔を赤くした。

「もう、美鶴ったら馬鹿な事言って!」

 頭をかきながら、田辺は話を変えた。

「社長、このあと何か用事ありますか?」

 怪訝な表情を浮かべて、雪乃が田辺に眼を向けた。

「ううん、ないけど」

「じゃあ、飯食いに行きませんか?この間ご馳走になった分、やっとお返し出来る身分になりましたから」

「え、……いいの?」

 確認するように見つめる雪乃に、田辺は笑顔を向けた。

「ええ。そのかわり、この間の俺くらいガツガツ食べて下さいよ」

 雪乃が、嬉しそうに笑顔を返した。

「うん、分かった。頑張って、胃がはちきれるくらいご馳走になります!」



 夕食を食べ終えた二人が店を出た時、時刻は八時を過ぎたところだった。

「まだ結構早いですね」

 時計から目を離しながら、田辺は雪乃に顔を向けた。

「社長、お酒飲みに行きましょう。いい店知ってるんですよ」

「うん、いいよ。どんなお店?」

「小さい店なんですけど、すごく感じがいいんですよ。穴場って感じのとこで、うるさい客もいないし。少し歩きますけど、行ってみます?」

 雪乃が大きく頷いて見せた。

「うん、行く行く。ぜひ連れてって下さい」

「じゃ、こっちです」

 雪乃に笑顔を向けながら、田辺は歩き出した。

「この店です」

 一軒の店の前で、田辺は足を止めた。

 その店は、大通りを離れた住宅地にひっそりと建っていた。派手な看板などはなく、小さいネオンで書かれた店名だけが、夜の闇に浮かび上がっていた。

 店内にはジャズがうっすらと流れ、適度に落とした照明が落ち着いた雰囲気を作り出している。壁一面に、ネオンで作ったビル街が広がっていた。まだ客は少なく、一人だけいた女性がカウンター席で静かに飲んでいた。

「すごく素敵なお店ね……」

 注文を済ませた雪乃が、店内を見渡しながら呟いた。

「そうでしょう」

 少し嬉しそうな顔で田辺は答えた。

「偶然見つけてから結構通ってるんですよ、ここ。一人でも落ち着いて飲める店ですし」

「ふーん……」

雪乃が、店内に走らせていた目を田辺に向けた。

「やっぱり田辺君って大人だよね。こんな静かなお店に一人で来るなんて、私には絶対できないよ」

 雪乃の言葉に、田辺は少し笑って見せた。

「ああ。俺ね、一人で飲むの結構好きなんですよ。なんかぼーっと出来てストレス解消になるんです」

 カクテルに目を落としながら、雪乃がため息をついた。

「……やっぱり私、田辺君にはかなわないなぁ。これでもね、すごく頑張って大人っぽく振舞ってたつもりなんだよ」

 カクテルを一口飲んでから、田辺は雪乃に眼を向けた。

「あ、それで俺の事『田辺君』って呼んでるんですか?」

「あれれ、それも見抜かれましたか」

 雪乃が、照れくさそうに首をすくめた。

「なんか、『君』って付けた方が女社長って感じでしょ。私、見た目も性格もまるっきり子供みたいだから、ちょっとハッタリかまそうと思って」

「そんなに無理して大人ぶる事ないじゃないですか」

 田辺は小さく笑った。

「社長は実際まだ若いんだし。俺が二三歳くらいの時は社長よりもずっと子供でしたよ」

「でもね、私は早くしっかりした大人になりたいの」

 つられたように笑いながら、雪乃が答えた。

「お父さんが亡くなってから、うちの会社って、結構危ない橋を渡ってるの。銀行もかなり不安がっちゃって、融資受けるの大変だったし。だから早く一人前になって、お父さんから受け継いだ北村事務所を守って行きたいんだ」

 雪乃の言葉が終わった時、田辺の横でかたんと小さな音がした。

いくつか離れた席に座っていた女性の、飲み掛けのグラスが倒れていた。その女性は、何故か身動き一つする事なく体をこわばらせている。田辺は思わず女性に体を向けた。

「大丈夫ですか」

 声を掛けたと同時に、田辺の耳に雪乃の声が聞こえた。

「……お母さん」

「……お母さん?」

 振り返った田辺の前で、雪乃が唖然とした表情を浮かべていた。

 三人の間に、静かな、しかし緊張した空気が流れ始めた。

 雪乃の母親が、覚悟を決めたように田辺に顔を向けた。

 雪乃とはまったく違う、静かな雰囲気を持つ人だった。

 ほっそりとしていて、長い髪をきっちりと後ろにまとめている。仕立てのいいスーツをしっかりと着こなしていた。

 雪乃の母親が、営業用とも取れる笑顔で田辺に軽く会釈をした。

「高柳茅乃と申します。あなたは、北村事務所の社員さん?」

「あ、はい。田辺と申します」

 慌てて頭を下げた田辺に、茅乃がにっこりと微笑みかけた。

「そう、田辺さんね。いつも雪乃がお世話になってます」

 二人の間に、雪乃の冷たい声が響いた。

「やめてよ、今更そんな母親みたいな真似。しらじらしくて笑っちゃう」

 雪乃が言ったとは思えない、辛らつな言葉だった。

 目を伏せた茅乃が、小さく呟いた。

「……ごめんなさい、余計な事言って。私には、こんな事言う資格なんてないものね」

 ぎこちない笑みを浮かべた雪乃が、茅乃に向かって鼻で笑って見せた。

「へえ、自分でも自覚してるんだ。まあそうよね、離婚してから八年間も会いに来ないんだもん。母親だなんて言えるわけないよね」

 茅乃が、苦しそうな表情を隠すように、雪乃から顔を背けた。

「そうね、あなたの言う通りよ」

「しかも、お父さんが危篤になった時でも電話の一本も寄越さなかったんだもん。最低だよね」

「……ごめんなさい。あの時は仕事で海外にいたものだから、連絡が私の元まで届くのに時間が掛かったの」

「じゃあ、どうしてお葬式にも来なかったのよ!」

 声を荒げた雪乃が、茅乃に厳しい眼を向けた。しかし田辺には、その眼に溢れ始めた涙がはっきりと見えていた。

「……せめてお葬式くらい来てくれたっていいじゃない。すごく心細かったんだよ」

 雪乃の声が、小さく震え始めた。

「一人きりでお葬式出したの。棺おけの前に座って、弔問に来てくれた人達に頭下げた。みんな、いろいろ慰めてくれた。でも、そんな言葉いらないって思った。私はね、ただ誰かに隣にいてほしかったの。側にいて、手を握って、一緒に泣いてほしかったの」

 雪乃の言葉が田辺の胸に響いた。その時の情景が目に浮かぶような気がした。

「頼れる人はあなたしかいなかった。でも、あなたはお香典を持たせた代理人を寄越しただけだったよね。だからその時決めたの、もう誰にも頼らないって。私が社長になって、お父さんの残してくれた会社を守っていくんだって」

 雪乃の言葉を受け止めながら、茅乃はぴくりとも動かなかった。雪乃が、その茅乃に訴えるような眼を向けた。

「ねえ、どうして何も答えてくれないの?言い訳があるんなら聞くから。だから、何か言って」

 雪乃から眼を逸らしたまま、茅乃が冷たい、しかし微かに震える声で答えた。

「……さっきも言ったでしょう。私には、何も言う権利がないの」

 その言葉を聞いた雪乃が、眼を伏せた。同時に、大粒の涙がいくつも頬を流れ始めた。

「話に……ならないね」

 呟いた雪乃が、大きな音を立てて席を立った。勢いよく店を出る雪乃を見て、田辺も慌ててドアに足を向けた。

「待って、田辺さん!」

 すがりつくような声に引き止められ、田辺は茅乃を振り返った。

「……なんでしょうか?」

 茅乃が、まっすぐに田辺を見つめていた。雪乃によく似たその眼に、田辺はしばし見とれた。

「こんな事を、会ったばかりのあなたに言うなんてずうずうしいって事は分かってます。でも」

 言葉を切って、茅乃が深々と頭を下げた。

「……あの子を、雪乃をどうかよろしくお願いします」

 少しの間、田辺は頭を下げたままの茅乃の背中を見つめていた。やがて、心底困ったような表情で、田辺はぽつりと呟いた。

「頭を上げてください。俺、どうしたらいいか本当に分からないです」

「……そうよね、ごめんなさい」

 顔を上げた茅乃が、苦しげに瞬きを繰り返した。それを見て、田辺は意を決したように名刺を取り出し、携帯の番号を走り書きした。

「これ、俺の携帯の番号です。あなたの連絡先も教えてもらえませんか?」

「……え?」

 呟いた茅乃が、怪訝な表情で田辺を見上げた。

「どうして?」

「すみません。出過ぎたまねをしてるって事は分かってます。でも、なんて言うか」

 頭をかきながら、田辺は茅乃に眼を向けた。

「俺には、あなたがそんなにひどい人に見えないから。だから、俺があなたの代わりに社長を見てます。それで、もし何かあったらすぐに連絡します。それくらいの事しか、出来ませんが……」

 呟くように言葉を切った田辺を、茅乃がじっと見つめていた。

 やがて、そっと田辺の名刺を受け取った茅乃が、もう一度深々と頭を下げた。



 茅乃のくれた名刺をしまいながら、田辺は店を出て辺りを見渡した。雪乃が、店から少し離れたところで田辺を待っていた。

 店を背にして、雪乃はまっすぐに空を見上げていた。

 静かに歩み寄った田辺の気配を感じたように、雪乃がくるりと振り返った。

「……なんか私、情けないとこばっかり見られてるね」

 雪乃が、ぎこちない笑顔を浮かべた。

「これで『しっかりした人になりたい』だなんて、笑っちゃうよね」

「そんな事、ないですよ」

 田辺は思わず、雪乃の苦しそうな笑顔から眼を逸らした。

「俺が社長の立場だったら、きっと同じような事になってると思います」

「そうかなぁ。田辺君だったら、もっと上手に切り抜けてると思うよ。私って、本当に子供だから」

「……そんな事ないですよ」

 困りきったような表情で同じ言葉を繰り返す田辺に、雪乃が申し訳なさそうな顔を向けた。

「ごめんね。気、使わせちゃって」

「……いえ」

 眼を逸らしたままの田辺をしばらく見つめていた雪乃が、やがて小さく呟いた。

「私、そろそろ帰るね。明日から会社だし、今夜は早く寝なきゃ」

 言葉を切った雪乃が、再び笑顔を作って田辺の顔を覗き込んだ。

「田辺君も、テレビばっかり見てないで早く寝るんだよ。じゃあ、また明日ね」

 そのまま返事を待つ事なく歩き出した雪乃が、少し離れたところで振り返った。

 そして田辺に向かって大きく手を振ると、そのままくるりと背を向け、走り去った。

 慰めの言葉一つ言ってあげられなかった田辺は、しばらくの間ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。

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