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七、柚香 一二時



 柚香は、隙を見せない雄也に罠を仕掛ける事にした。

 ふと何かの音を聞きつけたように、柚香は店の奥を振り返って、そのまましばらくシャッターの方を見つめ続けた。

「おい、どうした」

 雄也が声を掛けてきた。柚香は、はっとしたように振り返って雄也の顔に目を向けた。そして、目を逸らしてから小さく呟いた。

「……何でもないよ」

「今、後ろを見てただろう。何か聞こえたのか?」

「ううん、別に。ちょっと気になっただけ」

「気になったって、何が?」

「自分でもよく分からない。気にしないで、本当に何でもないから」

 雄也が不信そうな表情を浮かべ、柚香と店の奥を交互に見ながら立ち上がった。

「動くなよ」

 ウィンドウに向かって雄也が歩き出した。

 引っ掛かった。柚香はジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。雄也の姿を確認しながら、隆司の名前を探した。雄也はシャッターの前にしゃがみ込んで、異常がないか調べている。

緊急時のために教わっていた隆司の番号を見つけ、通信ボタンを押した。コールが聞こえる。一回、二回、三回。

「お願いだから早く出て……」

柚香は小さく呟いた。

 八回目のコールで電話が繋がった。そのまますぐに、元のポケットに携帯をしまった。

「ね、何もないでしょう、雄也君」

 柚香は大きな声で呼び掛けた。柚香の考えが分かったのだろうか。ありがたい事に、電話の向こうの隆司は声を出さなかった。

 雄也が戻って来た。顔にはまだ少し不信そうな表情が残っている。

柚香は、静かに深呼吸をしてから、雄也に顔を向けた。

「ねえ、雄也君。彼女と、大学の友達。どちらを刺したの?」



 それは、柚香の大きなカケだった。

まったく確証がない推理だ。いや、はずれである可能性の方が高い。しかし、柚香にはもう待つ気がなかった。もし自分の推理が当たっていたら、雄也を追い詰め、自分のした事を反省させ、そして、自首させる。

 雄也が驚いた表情を見せた。しかし、その理由が分からない。正解だからか、見当違いだからか。柚香の耳に自分の鼓動が響いた。

 ふと、雄也が警戒するような目を向けた。

「……何で分かったんだよ」

 柚香のカケは当たった。

「考えたの。あなたの手とナイフに、血が付いてるでしょう。でも、あなたはケガをしてない。それから、さっき話をした時に、彼女がいるかって訊いた時と、大学の友達の事を訊いた時、あなたの様子がおかしくなった。だから、どちらかを刺したんじゃないかって思ったの。ねえ、あなたは誰を刺したの?」

「そんな事訊いて、どうするつもりだ」

「知りたいの。どうして私と瑞穂ちゃんがこんな目に合っているのか。どうして、あなたは人を刺したのか。その理由を知りたいの」

 雄也が目を逸らした。

「話す必要ないだろう」

「私には知る権利がある!」

 柚香の大きな声に、雄也が目を上げた。

「ナイフを持ったあなたがそこにいる限り、私達は、いつ刺されるか分からないんだよ。瑞穂ちゃんも私も、何も悪い事してないの。それなのに、どうして命の危険を感じていなきゃいけないの?こんなの納得出来ないよ。だから教えて、雄也君。私達がここにいる理由を。あなたが誰を傷つけたのか、何故傷つけたのか。それを教えて」

 雄也が柚香を睨みつけた。柚香は目を逸らさなかった。雄也の目に、負けるわけにはいかなかった。

 長い時間が過ぎたあと、雄也が目を逸らした。柚香は、黙って雄也の言葉を待った。

やがて、雄也が話し始めた。

「……男を、刺したんだ」

「名前は?」

「……康介だ」

「友達なのね」

「今は違う」

「喧嘩したの?」

「俺が見放したんだよ。あいつが、俺ともう一人を傷つけて、馬鹿にしたから」

「もう一人の人は、雄也君の彼女なの?」

「前は、そうだったよ」

「そう。彼女の名前は?」

「里実だ」

「どうして別れたの?」

「里実には、他に好きな男がいたんだ」

「雄也君と付き合ってるうちに、好きな人が出来たのね?」

 雄也が首を振った。

「違う。里実は、俺と付き合う前からそいつの事が好きだったんだよ」

「それって変だよ。他の人が好きなのに、どうして里実さんは雄也君と付き合ったの?」

「康介に薦められたからだよ」

 柚香は少し雄也を見つめ、やがて話を続けた。

「それは、里美さんが康介君の事を好きだったって事なの?」

「そうだよ」

「康介君は、里実さんの気持ちを知ってたのね。それで、雄也君の事を薦めた。という事は、康介君は里実さんの事をなんとも思ってなかったのね」

「ああ」

 柚香は、床に目を落とした。

「そう。康介君、可哀想だね。友達の好きな人が、自分の事を好きになるなんて」

「……ちょっと待てよ。あんた、何であいつの肩を持つんだ」

「康介君の気持ちが分かるからだよ」

「俺と里実の気持ちは分からないのかよ」

「分かるよ。康介君が雄也君を薦めたから、里実さんは自分の気持ちを言えなくなったんだよね。だって、違う人と付き合えって言うのは『あなたの事をなんとも思ってない』って言われるのと同じ事だから。でもそれは、悩んだ末の事なんだよ。康介君は里実さんの気持ちをはっきり聞くのが恐かったの。だって、はっきりしちゃったら雄也君を失う事になるかも知れないじゃない。康介君にとって里実さんの気持ちは迷惑だったんだよ」

 雄也が声を荒げた。

「よくそんな事が言えるな!純粋に康介を好きだった里実を、なんで悪く言うんだよ」

「じゃあ、悪いのは誰?言っとくけど、康介君は絶対に悪くないよ。雄也君は里美さんの事、悪くないって言ってる。だったら、悪いのは雄也君なの?」

「どうして俺が悪いんだ。俺だって悪くないだろう」

「そうだよ、雄也君も悪くないの。だから、誰も悪くないんだよ。ねえ、どうして誰かを悪者にするの?悪かったのは、三人の運だけなんだよ」

「康介が里実の気持ちから逃げたからいけないんだろう」

「それは、雄也君との仲を守るためなの」

 雄也が鼻で笑った。

「だったら康介の取った手段は失敗だな。俺にとって康介はもう、憎しみの対象でしかないんだよ」

 柚香が小さく首を振った。

「どうして憎むの?康介君は、あなたの事を尊重したんだよ」

「なんだよ、尊重って。里実は、康介の事を諦めて俺と付き合ったんだよ。でもな、人の気持ちってそんなに単純なものか?そんなに簡単に別の人間を好きになれるのか?」

「だったら、好きでもないのに雄也君と付き合った里実さんを憎めばいいじゃない。

それに、里美さんは康介君の気持ちも裏切っているんだよ。だって、雄也君は康介君を憎んでしまったんだもん」

「康介は、里実の気持ちを利用して自分の思い通りにしたんだ」

「違うよ、雄也君。康介君は、純粋に雄也君の事を思ってたんだよ。里実さんに言った言葉だって、悪気はなかったの」

「じゃ、どうしてこうなったんだ。俺は里実に言われたんだ。『本当は康介の事が好きだった、だから今まで苦しかった』ってな!」

 雄也が怒りのこもった目を柚香に向けた。

「康介は、里実を苦しめたんだ。それから、俺も。俺が好きになったせいで、里実は苦しんだんだよ」

 柚香がすがりつくような表情を浮かべた。

「……違う、違うよ、雄也君。お願い、そんな風に考えないで」

 雄也が俯いて両手を握り締めた。

「康介は、どうして俺を薦めたんだよ。里実の事が好きじゃないのなら、ただ振ればいいだけじゃないか」

「康介君は、他にいい手が思いつかなかったの。それにね、雄也君なら里実さんを癒して幸せに出来るって思ったのかも知れない」

 雄也が探るように柚香に顔を向けた。

「……なあ、あんたはどうして、そんなに康介をかばうんだ?」

「私は、康介君の気持ちがよく分かるの」

「だから、何でだよ」

 柚香は、抱え込んだ膝に顔を埋めた。

「私、康介君と同じ立場にいた事があるの」

 雄也が驚いたように柚香を見つめた。

 柚香と雄也の闘いは、思いもよらぬ方向に動き始めていた。



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