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六、金子 一一時四五分



 聞き込みに向かった金子は途方にくれていた。目撃情報がまったくないのだ。

 この辺りは、五階建てくらいのあまり大きくないビルと、食べ物屋ばかりだった。

ビルの中には色々なオフィスが入っている。しかし立てこもり事件があったのは一一時前後。外回りをする者はとっくに出かけている時間だし、内勤の者は用がなければ外に出ない。食べ物屋も、一番忙しい昼食時のために、店にこもって仕込みをしている時間だった。

 時々大きなマンションが目に入る。だがロビーを覗いても、インターホンで呼び出しても人がいない。やはり働きに出ている時間なのだろう。たまに呼び出しに応じてくれるのは主婦ばかりだ。家事で忙しくて外を見ていないと言う。要するに、非常に中途半端な時間なのだ。

 金子は、目撃者を探してもくもくと歩き続けた。

 ふと、小さなアパートに差し掛かった。こういうところは学生が多く、授業と金がない学生は、昼間でも家にいる事が多い。金子はアパートに足を踏み入れた。

 部屋数は全部で六つ。下の階の二つは空振り。一部屋には人がいたが、心当たりないと言う。金子は二階に昇った。

 一番手前の部屋の前に立った。表札には「山岸」と書いてある。ノックをすると、少し遅れて返事があった。

「すみません、警察ですが。この近くでちょっと事件がありまして、お話を伺いたいのですが」

「はい、ちょっと待って下さい」

 出て来た男は、金子の推理通り、学生風だった。

「何かあったんですか?」

「ええ、まあ大した事じゃないんですが」

 少し話をはぐらかした。

「今日は、外出されましたか?」

「いや、今日はそんなに出てないです。一〇時過ぎに、コンビニに行ったくらいで」

「ほう、一〇時にコンビニへ。ここから近いところですか?」

「ちょっと離れてますよ。歩いて一五分くらいですかね。そこで昼飯用の弁当を買って、少し立ち読みをして、ここに戻ったのが一一時のちょっと前くらいかな」

 時間としては悪くない。

「その間に怪しい人はいなかったですか?」

「怪しい人ですか?具体的に、どういう人が怪しいんでしょうね」

「例えば、妙におどおどしてるとか、しきりに辺りを窺ってるとか」

 山岸が頭をかいた。

「うーん、そうだなぁ。この辺って午前中はあんまり人が歩いてないんですよね。誰にも会わなかったと思いますよ。あ、でもこの部屋の前で一人見かけました」

「山岸さんの知り合いの方ですか?」

「いや、知らない奴です。大体俺と同じくらいの年じゃないかな。階段を昇りきった時、目の前に立ってたんです。俺の顔を見て、いきなり走り出したんですよ。まあ、怪しいと言われれば、あいつが一番怪しいですね」

 手帳に書き込む金子の手に力が入った。

「山岸さん、男の服装は覚えてませんか?」

「服装ですか?うーん、一瞬しか見てないんですけどね。なんか、黒っぽいような気がするな。それくらいしか覚えてないです」

 「黒」という色が出ただけで十分だった。

「で、その男はこちらから来たわけですね」

 隣の部屋を指すと、山岸が頷いた。

「ええ、そうです」

「分かりました。ご協力、ありがとうございます」

 金子は頭を下げた。山岸の姿が消えたのを確認して、隣の部屋に向かった。

 床、ドア、ドアノブ、と観察していて、金子はふと、ドアノブに目を止めた。うっすらと赤茶けて見える。これは、血だろうか。

 表札を見ると「水野」となっていた。ドアをノックしても返事がない。ハンカチでドアノブをつかみ、そっと手前に引いた。ドアが音もなく開いた。

「水野さん、警察です。お話を伺いたいのですが、いらっしゃいますか」

 声を掛けて中を覗き込んだ。応答がない。

部屋の中の空気はどんよりと濁っており、鉄臭い匂いが充満していた。

 眉を寄せ、床に目を向けた金子の体に緊張が走った。床の上に、どす黒い血が大きく広がっていた。

いざという時のために腰を低くしながら、金子は部屋に上がった。

 男が倒れていた。腹から流れ出た血が、着ているセーターを赤く染めていた。駆け寄って脈をみる。非常に微かだが、まだ鼓動が感じられた。

 金子は風呂場に向かった。目に付いたタオルを手に持って男に駆け寄り、セーターとシャツを捲り上げた。傷が、ナイフの形を残してすっぱりと開いていた。

まだ少し出血が続いている傷口をタオルで抑えながら、片手で携帯電話を取り出して救急車を呼んだ。

通報を済ませて、金子は再び男に向き合った。

「水野さん!しっかりして下さい!」

 頬を叩いても、まったく反応しなかった。金子の声を聞きつけたのか、山岸が部屋に駆け込んで来た。

「けが人ですか?」

「ええ。山岸さん、アパートの前で救急車を待っていてもらえますか」

 山岸が飛ぶように部屋を出て行った。

「もうすぐ救急車が来ますよ。水野さん、頑張って下さい!」

 金子は必死に真っ白な顔を叩き続けた。



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