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三、柚香 一一時



 白井柚香(しらい ゆずか)は、アルバイト先の雑貨店でレジに向かっていた。

 一〇時に開店して、一時間経っていた。客はまだいない。思わず大きな欠伸が出た。

 柚香は二七歳だった。一日七時間、週五日働いている。

 月収はOLの友人と大して変わらないが、ボーナスがないのが痛い。

 しかし、一日中机に向かっているよりも体が動かせる販売業の方が、自分には向いているという気がしていた。

 この店は、生活雑貨店だ。品揃いは広く、文具・衣料品・食料品・家具・観葉植物・寝具まであり、店内にはベッドがディスプレイされていた。

 あのベッドで寝てしまいたい。そう思ってしまうほど退屈な朝だった。

 店長の隆司は、ウィンドウの近くに並んだサボテンに霧吹きで水をやっていた。

 ここからは見えないが、水をかけるシュッシュという気持ちのいい音が聞こえてきていた。

 ふいに、ウィンドウの自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

 反射的に声を出したが、誰の姿も見えない。

 身を乗り出すと、小さな女の子が棚の間を走って来るのが見えた。

 三歳くらいだろうか。子供向けのかわいいお菓子の棚で足が止まった。そのまま食い入る様に見つめている。

 よく母親と一緒に来店する子だ。ふと、柚香の視線に気がついたように顔を上げた。

 微笑み掛けると、女の子が安心したように人懐こい笑顔を見せてくれた。

 母親はどこにいるのだろうか。柚香は自動ドアに目をやった。

 ふいに、バタンと大きな音がした。柚香が振り向くと、青白い顔をした男がこちらに目を向けていた。肩で大きく息をしている。

 従業員用の裏口から入って来た男を、柚香は不思議な思いで見つめた。

 男が、ポケットからナイフを取り出した。

「動くな、おとなしくしろ」

 ドラマでよく聞くセリフだ。柚香はぼんやりとそう思った。何が起こっているのか、まったく分かっていなかった。

「柚香君、逃げろ!」

 隆司の声が聞こえ、男の体にサボテンの鉢が当たった。

 柚香は我に返り、レジを離れて自動ドアに向かった。

 ふと、目の端に映る女の子に気が付き、柚香は足を止めた。 

 何秒くらいだろうか。少し悩んでから、柚香は女の子に向かって走り出した。

 ほとんど同時に、男が女の子に向かって走り出した。だがこっちの方が近い。

 助けられると柚香は確信していた。

 女の子に辿り着き、体を持ち上げようとした。だが、女の子の体が動かない。

 見下ろすと、怯えた顔の女の子が棚の足をつかんでいた。

 お願い、手を離して。そう願いながら、柚香は女の子の手首を持って引っ張った。

 少しの抵抗があったあと、女の子の手が棚から離れた。

 男の気配が間近に感じられる。一瞬強い恐怖を感じたが、あえて何も考えないようにして柚香は一歩踏み出した。

 突然、柚香の足を何かが遮った。

 走り出した勢いのまま前につんのめり、とっさに後ろを向いて体をひねった。

 腰に強い衝撃を受けた。

 顔を上げると、男が目の前に立っていた。

 怯えてしがみつく女の子を抱き抱え、柚香は目に力を込めて睨みつけた。男の持つナイフに、心が負けないように。

「おとなしくしろ」

 男が低い声で呟いた。

 柚香を半分視野に入れながら店内を見渡している。柚香は隙を探した。まだだ、まだ逃げられない。

「シャッターを下ろすスイッチはどこだ」

 柚香の心に改めて恐怖が走った。ウィンドウを閉じられたら逃げ道は裏口だけになる。

 答えられない柚香に向けて、男はナイフをちらつかせた。

「シャッターのスイッチはどこだ!」

 荒々しい男の声に逆らう事ができず、唇を噛みしめながら壁際のスイッチを指差した。自分の手が震えているのが、たまらなく嫌だった。

 男が、全速力で走って行った。

 スイッチの上に掛かっているカバーに手間取っているようだ。あのカバーはいたずら防止のため、開けづらくなっている。

 チャンスは今しかない。

 立ち上がろうとして、柚香は足が動かない事に気がついた。自分でも驚いた。

 こんなに弱い人間だったなんて。

 右手で足を持ち上げて膝を立て、真横にある棚に手を伸ばして体を支えた。

 左手に抱えた女の子を離す事はしなかった。手元から逃げられたら、追い掛ける自信はとてもない。

 何とか立ち上がる事ができ、柚香は裏口に向けてふらふらと歩き出した。

 背中の向こうで、シャッターが閉まり出す音が聞こえた。柚香に残された時間はもう少ない。

 シャッターが、がたがたと大きな音を立てている。まだ閉まりきっていないようだ。大丈夫、まだ大丈夫だ。

 ガチャンという、シャッターが閉まり切った音が店内に響いた。とたんに、柚香の足が軽くなった。

 追い詰められた柚香は、ここでようやく走り出す事ができた。

「動くな!」

 大きな声が聞こえた。

 目の前を何かが通り過ぎ、思わず足が止まった。ものすごい音が、目の前の壁から響いてきた。

 一度止まった柚香の足は、もう動いてくれなかった。

 いつの間に来たのだろうか、気がつけば、すぐ横に男が立っていた。

「動くな」

 もう一度言って、男がナイフを向けた。

 柚香はもう、逃げる事が出来なかった。

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