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一三、柚香 一三時

 冷やしてある缶ジュースを取り、柚香は雄也に軽く投げて渡した。

「飲みなよ、私のおごり。あとで払っておくから」

 先に飲んで見せた柚香につられて、雄也もプルトップに手をやった。

 私って、本当に人質?

 柚香は思った。

 こんなに自由に歩き回る人質なんて、いるのだろうか。




 雄也は、最初から変だった。

 ナイフを持って押し込んでおきながら、レジ金に見向きもしない。

 売り場に荷物紐があるのに、柚香を縛ろうともしない。もう一人の人質は、ディスプレイのベッドで気持ちよさそうな寝息を立てている。

 気がついていないのかも知れない。最初はそう思った。

 にぶくて、自分のやるべき事を忘れているのだろうと。

 だが、しばらく一緒にいて分かった。雄也は、決してにぶい男ではない。

 意見もちゃんとしている。立てこもる時もいち早くウィンドウのシャッターを閉めたし、今だって裏口を見張るためにいい位置にいる。

 普通に考えて、手足を縛るなんて初歩的な事を忘れるわけがない。

 となると「忘れている」のではなく「する気がない」というのが正解だろう。

 その事に、柚香は雄也の優しさを感じていた。

 雄也は、康介を刺すという罪を犯した。

 康介はどうしているのだろうか。もしかしたらもう、命がないかも知れない。

 だとしたら、雄也は殺人者だ。

 柚香は雄也を恐れ、軽蔑し、人間として許せないと憤慨するべきなのだろうか。

 それが、一般的な考え方かも知れない。しかし、柚香の気持ちは違っていた。

 柚香は、ひとりの人間として雄也を好きになっていた。

 友人を刺し、二人の人間を人質にしているこの男を、もうすでに許していた。

 だからこそ、柚香は雄也を救いたかった。

 大きく息を吐いてから、柚香は静かに闘いを再開した。




「雄也君、これからどうするつもり?」

 無言で目を上げた雄也を見つめながら、柚香は言葉を続けた。

「人質を盾にして逃亡する?」

「……そんな事、考えてなかった」

「駄目じゃない、たぶん警察に連絡行ってるよ。もう外で大勢の警官がバリケード張ってるかも知れない」

「そんな、おおげさな」

「今はしてなくても時間の問題だと思うな。このままここにいたらいずれそうなる。そしたらどうするの?」

「どうするって……」

 動揺したように、雄也が目を伏せた。

「大体、どうしてここに逃げ込んだの?」

「……追われてると思ったから」

「どうしてそう思ったの?」

「アパートを出た時、人に見られた。あせって走ってたらパトカーがいて、警官と目が合った気がした。恐くなって裏道を夢中で走ってたら行き止まりで、目の前にここの裏口があった。あんたと子供を見て、人質にしようと思った」

「あのさ、私から言うのもなんだけど、それって無計画過ぎると思うよ」

「……自分でも、そう思う」

 消え入りそうな声で、雄也が呟いた。

 その様子を見つめながら、柚香が言葉を続けた。

「もう一つ、質問してもいい?」

「ああ」

「どうして康介君を刺そうと思ったの?」

「それは……」

 声を詰まらせた雄也に向けて、柚香は厳しい声を掛けた。

「答えて」

「……憎かったからだよ」

「ああ、そっか。雄也君は、自分と里実さんを傷つけた康介君を、憎んでたんだっけ」

「ああ」

「それで、康介君を殺そうと思ったんだよね」

「……」

「あれ、違うの?殺そうと思ったから刺したんでしょう?」

「殺そうとは思ってない」

「ナイフを持って行ったのに?」

「康介が怯える顔を見たかっただけだ。俺に怯えて『助けてくれ』と言うあいつを見たかったんだ」

「それで、康介君はあなたに怯えたの?」

「あいつは、俺の顔を見てもナイフを見ても笑ったままだった。『おまえが何をやっても恐くない』って言われたような気がした」

 雄也の言葉を聞いて、柚香はゆっくりと首を振った。

「それは違うよ、雄也君」

 雄也が、勢いよく立ち上がった。

「何が違うんだよ!あいつは『どうせ刺せないだろう』と思ってたんだ」

「そうじゃない。康介君は、何も思わなかったのよ」

「……どういう意味だ」

「雄也君が持つナイフの意味が分からなかったの。ナイフを見ても『刺す』とも『刺さない』とも思わなかった。雄也君が自分を傷つけるなんて考えもしなかったの。自分のした事を、雄也君を、ずっと信じていたから」

 柚香を見つめたまま、雄也の表情が次第に消えていった。その様子を見ながら、柚香は一歩、雄也に近づいた。

「ねえ、分かる?康介君はまったく悪気がなかったの。だから刺されるなんて思えなかった。康介君がもし、あなたを馬鹿にしていて、あなたを傷つけようと思っていたのなら。そうしたらきっと、あなたの思い通りに助けを求めていたんでしょうね。だけど、康介君の中には悪意がなかった。康介君には他の道が全部、みんなが悲しむ道に見えたの」

 言葉を切ってから、柚香は雄也の顔を覗き込んだ。

「だからね、雄也君。康介君が選んだ道は正しいの。康介君は、悪くないの」

「……そんな」

 ゆっくりと首を振る雄也に向かって、柚香は言葉を続けた。

「みんなが傷つかずに済む道はなかったんだよ。三角関係ってそんなもんでしょう。必ず誰かが傷つくの。友情か、愛情か。その選択によって余る人が必ず出てくるの。康介君が他のどの道を選んでも、絶対に誰かが傷ついたんだよ」

 雄也がぽつりと呟いた。

「……傷ついた人間は、傷つけた人間を憎んじゃいけないのか?」

「いけないんだよ、雄也君。あなたは、里実さんを好きになる時に傷つく事を覚悟しておくべきだったの」

 無言のままで、雄也が目を伏せた。

「恋愛って本能に近い。人と人とが剥き出しの感情で対するものなの。だから、お互いに傷を作りやすい。でも、それは仕方のない事なの。それが人を好きになるって事だから。どんな結果でも受け入れる。そういう覚悟がない人間に、人を好きになる資格はない」

 床を見つめたままで、雄也は動こうとしなかった。

「雄也君、あなたはもう分かってるはずだよ。最後まで友達を信じていたのは誰だったのか。裏切ったのは誰だったのか。それを、きちんと認めて。今のあなたになら、それが出来るはずだから」

 黙り込んでいる雄也に向けて、柚香は厳しく、そして優しい表情を浮かべていた。

 力を失ったように、雄也はその場に立ち尽くしていた。

 ずっと握られていたナイフが、ふいに手から滑り落ちた。床に当たって大きく弾む音が店内に響き、やがて消えていった。

 柚香は黙って、雄也の言葉を待っていた。

 長い、とても長い沈黙のあと、雄也が小さく呟いた。

「康介は俺を信じていた。最初からずっと、変わらずに」

「そうだよ、雄也君。康介君はあなたがナイフを刺すまで、あなたの事を信じていた」

「友達を裏切ったのは、俺だった」

「そうだよ、雄也君。あなたが裏切ったの。自分を信じてくれている友達を、あなたは裏切ったんだよ」

「……俺は、どうしたらいいんだ」

 崩れ落ちるように、雄也が床に膝をついた。

「どうしたら償えるんだ。俺はあいつを殺したかも知れない。あいつを失ったかも知れないんだ!」

 強い力で拳を床に打ちつけてから、雄也が震える声で言葉を続けた。

「この手で……、あいつを刺したんだ。俺はどうしたらいいんだよ。どうしたらいいんだよ……」

 いつの間にか、雄也が泣いていた。手が折れそうなほどの力で、拳を何度も打ちつけながら。





 どれほどの時が経ったのか、柚香には分からなかった。

 いつしか、床に突っ伏したままの雄也が、拳を打ちつけなくなっていた。

 静かになった雄也の横にしゃがみ込み、柚香はそっと声を掛けた。

「自首しよう、雄也君」

 雄也の背中がぴくりと揺れた。

「私には、康介君が助かってるのか、そうでないのか分からない。助かっていたとしても、あなたを許すかどうか、それも分からない。だけど、一つだけ分かる事がある。あなたは、ここを出なくちゃいけない」

 静かに語り掛けながら、柚香はふいに涙が溢れるのを感じた。

 不安とか、恐れとか。そういう意味の涙ではなかった。

 ただ、目の前にいる雄也を見て哀しくて。

 この先、雄也が抱えなければならない試練を思うと哀しくて。

 それでも、柚香は言葉を続けた。それが、今の自分の役目だと分かっていたから。

「……あなたがここにいる理由は、もうないの。このままここにいても。誰も、誰一人楽にならないんだよ」

 雄也が、ゆっくりと顔を上げた。

 頬を流れる涙を拭いながら、柚香はもう一度繰り返した。

「自首しよう、雄也君」

 少しの時間のあと、雄也が小さく頷いた。

 柚香は思わず、雄也を抱きしめた。

 強く力を込めながら、柚香は願った。

 いつか、いつの日か。

 雄也に穏やかな日々が訪れますように、と。

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