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記憶を超えた、ある事実


二、

 待ち合わせの日、午前一一時半。
 駅前で、香奈は途方に暮れていた。
 ぼんやりと考え込んでいる香奈の肩が、ぽんっと軽やかに叩かれた。
「よぉ、神崎。待たせたな」
 振り返った香奈の前に、ちょっとウキウキした顔の光一郎が立っていた。
「……明らかに張り切ってるし」
「しゃあねぇだろ。男の性だ」
「この……、どすけべ」
「何とでも言ってくれ。で、みんなは?」
 きょろきょろとあたりを見渡す腕をつかんで、香奈は光一郎を見上げた。
「その事だけど。……先生、落ち着いて聞いてね。みんなは今日、来ないの」
「え!何で?」
 驚いている光一郎に向けて、香奈はその理由を一気にぶちまけた。
「五人中二人が風邪。一人が盲腸で入院。一人が部活の柔軟運動中股関節を脱臼。ラスト一人が自宅の屋根から落っこちて足を骨折。以上!」
「……ちょっと待て」
「明日にでも学校に連絡あると思う。でも大丈夫、命に別状ないから」
「……いやだから、ちょっと待て」
「信じたくない気持ちは分かるけど、これは事実だから」
「……あ、そう」
 呟いた光一郎が、ふと真剣な表情で香奈の両肩に手を置いた。
「香奈。おまえ、もしかして……。呪った?」
「呪うか!つうか、呪えるか!」
 肩の手を振り払いながら、香奈は光一郎を睨みつけた。
「まあ、そういうわけで!今日は私しか来れないの。どうする?」
「どうするって、おまえ……」
 困った表情で、光一郎が腕を組んだ。
「まあ普通に考えれば、この場で解散するってのが妥当だと思うが」
「分かった。じゃあね」
 とっとと背中を向けた香奈の手を、光一郎がつかんで引き止めた。
「おいおい、ちょっと待てって」
「何よ!」
「今おまえに帰られたら俺、困るんだ。頼む。一緒にうちまで来てくれないか?」
「……え?」
 すがりつくような光一郎の目を見て、香奈は思わず足を止めた。
「でも、あの。……いいの?」
 少し顔を赤らめながら、香奈は光一郎に体を向けた。その瞬間。
「なぁにをしてるのかなぁ、君達は」
「うわ!」
「ひえ!」
 びっくりして振り向いた二人の視線の先に、眉をひそめた竹田が立っていた。
「竹田先生!何でこんなところに?」
 焦って尋ねた香奈に、竹田が歩み寄った。
「何って決まってるでしょ。今までお仕事してたの。それより、君達こそこんなところで何してるの?」
「ま、まだ何もしてません!」
「……まだ?」
「あ、いえ……、永遠に何もしませんけどぉ」
 パニックになっている香奈をフォローするように、光一郎が口を挟んだ。
「竹田先生、俺達は別に、ご心配頂くような事は何も」
「じゃ、その手は何?」
「え?……あ!」
 竹田の視線を追った光一郎が、慌てて香奈の手を離した。
 その様子を見て、竹田が光一郎に鋭い目を向けた。
「遠藤先生。我が校の教師心得第一条第九項を言ってみて」
「……えっと。『生徒と個人的に深く知り合う事なかれ』」
「よろしい。で、それをふまえて、今の状況をどう説明する気?」
 厳しい表情の竹田に向けて、香奈は焦りつつ声を掛けた。
「違うの、先生。本当は今日、クラスのみんなと一緒にここに来るはずだったんです。だけど色々あって……」
 全ての事情を聞き終えた竹田が、香奈をしみじみと見つめつつ尋ねた。
「神崎さん、あなたもしかして……。呪った?」
「だから、私は呪えません!ていうか、どうして同じ事考えるかなぁ」
 自分を睨む様子を気にせず、竹田が香奈の腕をつかんだ。
「まあ、いいわ。事情は分かった。話は簡単じゃない、神崎さんはこのまま家に帰りなさい。それで問題解決。じゃあね、遠藤先生」
「ちょ、ちょっと待って下さい、竹田先生」
 引きずられるように歩き出す香奈の手を、光一郎が再びつかんで引き止めた。
「何よ。まだ何かあるの?」
 眉をひそめて振り返った竹田に、光一郎が真剣な目を向けた。
「神崎を連れて行かないで下さい。今の俺には、こいつが必要なんです」
 厳しい表情を浮かべた竹田が、光一郎に向き直った。
「……それ、どういう意味?」
 香奈の腕をつかんだままで、光一郎が目を伏せた。
「俺今日、朝からすごく張切ってました。教え子が家に来てくれるって事が、すごく嬉しかったんです」
「そう。それで?」
「で、思わず作ってしまったんです。恐ろしく大量のカレーを」
「……カレー?」
「はい。軽く見積もっても一〇人分はあります。あの量を一人で食べ尽くす事は一週間掛かっても不可能です。だがしかし!」
 香奈の腕を引きよせ、光一郎がその肩に手を置いた。
「こいつさえいれば恐れる事は何もない。何せこいつは、それはもう底なしの大食漢なんです。どんな食物でもそれが食物である限り残さず食べ尽くすという伝説の」 「嘘言わないでよ、もう!」
 むかむかと腹が立ってきて、香奈は光一郎の言葉を遮った。
「何を言い出すかと思えばくだらない!そんなの一人でどうにかしてよ。私、もう帰る!」
「そんなぁ。協力してよ、神崎さぁん」
「うるさい!とっととその手をお離し!」
 すがる手を冷たく振り払われている光一郎に、竹田が気の毒そうな目を向けた。
「まあまあ、神崎さん。そう言わないで手伝ってあげたら?」
「何言ってんですか。教師と生徒が個人的に知り合っちゃいけないんでしょ?」
「それはそうよ。だから、私も一緒に行くわ」
 途端に、光一郎が一歩身を引いた。
「げ!」
「『げ!』って何よ!感謝しなさいよね。私が他の子達の代わりになってあげるって言ってるのよ」
「あ、ありがとうごさいます」
 慌てて頭を下げた光一郎が、一瞬顔を逸らして呟いた。
「でも……。随分とその、ぴちぴち度が」
「……何かおっしゃった?」
「いえ!何も言っておりません。大歓迎でございます」
「まったく。最初から素直にそう言えばいいのに。さ、行きましょう。神崎さん」
「はーい。んじゃ、遠藤先生。ナビよろしく」
「……はい」
 女性二人に促され、光一郎がふらふらとよろめきながら先を歩き出した。


 アパートの前で、香奈は外観を見上げた。
 恐らく若者向けであろうその建物は、とてもシンプルな外装だった。まだ色あせてない真っ白な壁が、全体的に清潔な印象を与えている。
 部屋数は全部で六室。アパートの前方には、住人のものと思われる自転車が数台止めてあった。
「いい感じだね。きれいだし」
「おう。まだ築二年しか経ってないんだ」
 鍵を握り締めた光一郎が、急な階段を昇りながら答えた。
 目的の部屋は、二階の一番奥だった。鍵を開けた光一郎が、外開きのドアのノブをつかんで二人に道をゆずった。
「さ、どうぞ」
「おじゃましまーす」
 玄関に入って靴を脱いだ香奈は、興味しんしんで辺りを見渡した。
 靴を脱いだその小さな玄関には、カラーボックスがひとつ置かれている。中には、何足かの靴が並べられていた。
 香奈の立つ場所の右手には簡単なシンクがあり、その反対側にあるドアの中は、ユニットバスのようだった。
 香奈の後ろから、竹田が声を掛けた。
「見学は後にして、まずは上がっちゃってくれる?」
「あ、はい」
 慌てて、香奈は足を進めた。
 目の前にあるドアを開けると、そこは六畳ほどのワンルームだった。
 ロフト付のその部屋は、香奈の予想よりも広く感じられた。
 手を伸ばしても届かないくらいの高さにロフトがあり、天井まではその二倍近くの距離があった。ベランダに出る窓から外を覗くと、小さな公園が見えた。前方に建物がない分、感じる開放感が増しているような気がした。
 香奈に続いて部屋に入った竹田が、光一郎を振り返った。
「きれいにしてるじゃない」
「当然です。お客さんが来るんですから」
 ベランダとは別にある出窓を広く開けながら、光一郎が答えた。
「すみませんね、カレー臭くて。今朝早くから煮込んでたもので」
 床に置かれたローテーブルの前に座りつつ、香奈は光一郎を見上げた。
「今朝早くからって、どのくらい煮込んでたの?」
「聞いて驚け。五時間だ」
「……ていうと、今日は何時起き?」
「それは、恥ずかしいから教えない」
 そそくさとシンクに向かう光一郎を目で追いながら、竹田がからかうような笑顔を浮かべた。
「随分と教え子思いなのね」
「ええ、よく言われますよ」
「……誰に言われてるんだか」
 光一郎の背中を見ながら、香奈は呟いた。
 しばらくして、両手に皿を抱えた光一郎が満面の笑みで戻って来た。
「ちょっと時間早いですけど、よかったら食べて下さい」
「ありがとう、頂くわ。朝から仕事でお腹空いてたの」
 テーブルにつく竹田に笑顔を向けながら、光一郎がグラスに麦茶を注いだ。
「どうぞどうぞ。好きなだけお召し上がり下さい」
「で、自信のほどは?」
「完璧です」
 きっぱりと言い切ってから、光一郎が再びシンクに戻って行った。
 残された二人は、一瞬顔を見合わせた。
「じゃあ」
「いただきますか」
 スプーンをつかんだ香奈は、少しの間そのカレーを眺めてみた。ルーのみで作る自宅のカレーと違って、なかなかいい香りが立ち上っていた。
 スプーンを口に運んだ香奈は、思わず声を上げた。
「美味しーい」
 自分の皿を持った光一郎が、小走りで戻って来た。
「だろ、だろ!」
「うん、これはいけるわね」
 竹田が、大きく頷いた。
「すごく風味がある。これって結構スパイス使ってるでしょう。レシピは?」
「ふふふん。それは企業秘密です」
 得意げな顔をしている光一郎に、香奈は尋ねた。
「結構料理好きだったりするの?」
「いや、全然。だけど、カレーだけは特別なんだよなぁ」
「ふーん。特別、ねぇ」
 にこにこしている光一郎を見て、竹田が意味ありげに笑った。
「もしかして、彼女に手取り足取り教わったとか?」
 その言葉を聞いて、香奈の手がぴたりと止まった。
「そんなんじゃないですよ。ちゃんと自分で研究したんです」
 答えた光一郎が、ちらりと香奈に目を走らせた。
「俺、昔っからカレーがめちゃくちゃ好きなんですよ。で、せっかく一人暮らしするんだし、ひとつくらい得意料理が欲しいなと思って。美味い店とかたくさん回って、ようやくこの味に辿りついたんです」
「ふーん。じゃあ、その修行の成果を、彼女に見せてあげてるのね」
 竹田の言葉に、光一郎が少し困った表情を浮かべた。
「ちょっと先生。何ですか、彼女彼女って。セクハラですよ、それ。この間俺に向かって『セクハラ、セクハラ』って怒ってたくせに」
「いいじゃない、いやらしい事言ってるわけじゃないんだし。それに私は、神崎さんにはからんでないもん」
 言葉を切った竹田が、香奈に目を向けた。
「ねえ、神崎さん」
 急に話を振られて、香奈は慌てて相槌を打った。
「ああ、そうですね」
「でしょ?」
 笑顔を浮かべた竹田が、再び光一郎に顔を向けた。
「ところで。ねえ、けちけちしないでレシピ教えてよ」
「駄目です。先生、意地悪だから」
 そのまま、二人の会話が始まった。しかしいつしか、香奈の耳にその会話は届かなくなっていた。


 一二年前に、香奈の一家は光一郎のいる街を離れた。それからの光一郎について、香奈は何も知らない。
 光一郎がもてる事は知っている。現に今も、クラスメイト達は光一郎の熱心なファンである。
 今、光一郎には彼女がいないはずである。本人がそう言っていた。だが、それが一〇〇%本当かどうか、香奈には分からない。
 四六時中一緒にいる男女だって、お互いの気持ちが分からなくなる時があるはずだ。ましてや、香奈と光一郎が本心でいられるのは、せいぜい電話をしている一時間ほどだけだ。
 もしかしたら、誰かがこの部屋で光一郎と同じ時間を過ごしているのかも知れない。
 そう思ってしまうと、何故だか部屋全体が急によそよそしくなってしまったような、そんな気がした。
 いつしかうつむいていた香奈に、光一郎が声を掛けた。
「おい、どうした?」
「……え?」
 顔を上げた香奈の目が、光一郎の目とぶつかった。
 光一郎の目が、いつもとは違う大人の目に見えた。心を見透かされそうな気がして、香奈は思わず目を逸らした。
「……別にぃ」
 答えた香奈は、少し慌ててスプーンを持ち直した。
 自分の気をそらしたくて、香奈は勢いよくカレーに向かった。




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