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記憶を超えた、ある事実


一、

 ある日の放課後。
 高校二年生である神崎香奈は、教科書を抱えて職員室を覗き込んだ。
 お目当ての教師が机に向かっているのを見て、香奈は笑顔で近づいた。
「竹田先生、今お時間いいですか?」
「あら、神崎さん」
 去年の担任だった竹田が、顔を上げた。
「どうしたの?」
「実は、今習ってる古文の解釈に困ってて。教えて頂けませんか?」
「……いいけど」
 頷いた竹田が、少しためらいがちに香奈に体を向けた。
「でも、私に訊かなくってもいいんじゃない。お宅の担任、すぐに戻って来ると思うけど」
 現在の香奈の担任は、新任教師の遠藤光一郎である。彼もまた、国語の教師だった。
「ああ、いいんです。私、遠藤先生には授業以外で質問しないって決めてるんで」
「それはまた、どうして?」
「それがね、聞いて下さいよ」
 思わず、香奈は大きく身を乗り出した。
「遠藤先生ってね、質問しに行く度に、聞きたくもない話を無理やりしてくるんです。すっごく困ってるんですよ、私」
「……聞きたくもない話?」
「そうなんです。それにここだけの話、遠藤先生に質問しに行くと、帰りにやたらプリント持たされるんで困るんですよ」
 うんざりしながら話す香奈の真後ろから、ふいに声が響いた。
「……言ってくれるじゃないか、神崎」
「む、出たな」
 振り返った香奈の頭を、背後に立っていた光一郎が軽く叩いた。
「君はまだ分からないのか。あのプリントは、心優しい教師の愛情のかたまりなんだよ」
「重過ぎる愛情って、時には迷惑になったりもするんですよ。その辺、早いとこ理解して下さい」
「もうすぐ夏休みっていうこの時期に、ずいぶん大胆な発言だなぁ。通知表がどうなっても知らんぞ」
「それって脅迫ですか?生徒を脅迫する気ですか、先生?」
 静かなバトルを繰り広げている二人の間に、立ち上がった竹田がいきなり割り込んだ。
「……遠藤先生」
 低い声で名を呼ぶ竹田には、何やらただならぬ気配が漂っていた。その気配に押されるように、光一郎が一歩後ろに下がった。
「は、はい。何でしょう」
「見損なったわ、私」
 きつい目で光一郎を睨みつけながら、竹田が一歩踏み込んだ。
「生徒にセクハラするなんて、教師の風上にも置けない行為よ!」
「……セ、セクハラ?」
 目を丸くした光一郎が、ぶんぶんと何度も首を横に振った。
「してないです!俺はそんな事絶対に」
「とぼけないで!私は今、この場で神崎さんから聞いたのよ」
「神崎から?」
 視線を投げ掛けられた香奈は、思わず首を傾げた。
「セクハラ?遠藤先生、いつ私にセクハラしたの?」
「いやだから、こっちが訊きたいから!というか、竹田先生に何言ったんだ?」
 焦る光一郎に詰め寄られ、香奈は慌てて竹田に目を向けた。
「ねぇ、竹田先生。私、セクハラなんてされてませんけど」
「だって、あなたさっき言ったじゃない。『聞きたくもない話を無理やりしてくる』って!」
「ああ」
 ぽんっと手を打った香奈は、もうすでに光一郎の胸倉をつかみかけている竹田の肩をなだめるように叩いた。
「先生。それ、違いますから」
「違うって何が!」
「あのね、遠藤先生が無理やり話してくるのは、怪談なんですよ」
「……怪談?」
 力が抜けた竹田の手を、光一郎がそっと外した。
「あ、それはしてます。怪談はしてます」
 光一郎から香奈に目を移して、竹田が再び呟いた。
「……怪談?」
 こっくりと、香奈は頷いた。
「そう、怪談。私、恐い話大嫌いなんです。なのに遠藤先生っていっつも『こういうのは慣れる事が大事だ』とか言って、無理やり話してくるんです」
 香奈の言葉を聞き終えた竹田が、複雑な表情を浮かべつつ光一郎に目を戻した。
「……遠藤先生」
「……はい」
「怪談なら別に問題にならないけど……。でも大人として、人が嫌がる事をするってどうなの?」
「いや、あのですね、竹田先生」
「というか……。いい歳して生徒に恐い話して喜ぶって何?それとも、そういう趣味?」
「いや、ですからね。これには深い事情がありまして……」
 そのまま攻防を始めた教師二人を見て、香奈は小さく呟いた。
「……もしかして、しゃれにならない?」
 やがて、白熱する二人の周りに他の教師が集まり出した。
 いつしか出来上がった教師の輪からこっそりと離れ、香奈は逃げるように職員室を後にした。


 香奈と光一郎は、幼なじみだった。十年以上離れ離れになっていたが、今年になって二人は偶然再会した。香奈が通っている高校に、光一郎が新任教師として赴任して来たのだ。
 再会してすぐ、ひょんな事から二人は暗い倉庫に閉じ込められた。そこで色々な話をしているうちに、いつしか香奈は光一郎に惹かれていったのだ。
 そうは言っても、教師と生徒である事に変わりはない。
 男女交際に厳しい学校である事もあって、二人は幼なじみだった事を隠し、卒業まで完璧な「教師と生徒」でいる事を約束した。
 しかしいつしか、二人は毎晩のように携帯で話をするようになっていた。
 学校では大して話が出来ない分、香奈はこの時間を何よりも大切に思っていた。


 というわけで、その日の夜。
 携帯に来た光一郎の着信を取った途端、香奈は思わず頭を下げた。
「光ちゃんごめん、光ちゃんごめん、光ちゃんごめん!」
「……本当に、おまえって奴はよぉ」
「ごめん、ごめん、本当にごめん!」
「あの後、俺がどんな目にあったのか分かってんのか、こら」
「えっと……。どうなったの?」
「俺はなぁ。『女の子の恐がる様子を見て喜ぶ新手の変態』って事にされかけたんだぞ」
 その言葉を聞いて、香奈は一瞬首を傾げた。
「あれ?でもそれってある意味正解?」
「……なんですと?」
「あ、嘘です。冗談です。反省してます、すみません」
「……ま、いいけどな。誤解は解けたから」
 電話口で、光一郎が大きくため息をついた。
「でも、竹田先生の心証はかなり悪くしちまった気がするなぁ。せっかく今まで好青年で通してたのに」
 寂しそうに呟く光一郎の気を逸らすため、香奈は少し焦りつつ違う話を振ってみた。
「あ、そうだ。今度の日曜日に、クラスのみんなで光ちゃんの家に遊びに行くって話だけど」
「おう、あれな!どうなった?」
 途端に声が弾む光一郎に、香奈は少し冷めた声を掛けた。
「……何、その態度の豹変ぶり。そんなに嬉しいわけ?」
「そりゃ、おまえ。可愛い女生徒……、いや、教え子が遊びに来てくれるんだ。教師としては喜ぶしかないだろう」
「『教師として』じゃなくて、一人の男として嬉しいんだって認めなよ」
「まあまあ、そう意地悪言わないで。で、どうなった?」
 小さくため息をつきながら、香奈は答えた。
「結局行けるのは、私を含めて六人だけになっちゃった」
「いい、いい。俺んちそんなに広くないから、それくらいで十分」
「で、待ち合わせは学校の最寄駅に一一時半でどう?」
「了解!ふっふっふ。何着てこうかなぁ」
「……お昼、ご馳走してくれるんだよね」
「そうそう!手作り料理を振舞っちゃうから、楽しみにしてろよ」
「……あのねぇ、光ちゃん」
「ん、何だ?」
「卒業後に私が一人で遊びに行く時、今以上に張切らなかったら、……怒るよ」
「ああ、心配するな」
 あっさりと、光一郎が答えた。
「俺としては、一人で来てもらう方が一〇〇倍嬉しいから」
「……光ちゃん」
 一瞬感動しかけた香奈は、ふいに冷静になって尋ねた。
「あの、もしかして。……とんでもなくやらしい事考えてない?」
「あ、分かる?」
 はっはっはと笑う光一郎に向けて、香奈は顔が赤くなるのを感じながら声を荒げた。
「このすけべ!そういう事しか考えられないの?」
「冗談だよ」
 香奈の大声を聞いて、光一郎が小さく笑った。
「心配するな。おまえが嫌がるような事は何もしないから」
 その優しい声に、香奈は一瞬戸惑った。
「あ……、うん」
「ま、絶対にしないとは限らんがな」
「どっちだ!」
 真剣につっこむ香奈の声を聞いて、光一郎が大笑いした。
「まあ、そんな先の事は気にするな。じゃ、ちゃんと寝る前にトイレ行けよ」
「分かってます!ったくもう、じゃあね!」
 赤い顔のまま携帯を切った香奈は、少しふてくされつつベッドに倒れ込んだ。
「……なんか私、いっつも光ちゃんにからかわれてる気がする」
 ふうっとため息をついてから、香奈は勢いよく起き上がった。
「もう、バカ!たまには真剣に『好きだ』とか言ってみろっつうの、この鈍感男!」
 そしてどすどすと足音を立てながら、香奈はトイレに向かった。




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