記憶を離れた、ある出来事 |
五、 玄関の前で、光一郎はネクタイを締め直した。その様子を見て、香奈が首を傾げた。 「なんか、緊張してない?」 「いや、だってさ。おまえの両親に会うのって久々だし」 「まあ、そりゃそうだけど」 光一郎につられたように少し表情を引き締めて、香奈がドアを開けた。 「ただいまー」 「おかえり。ずいぶん遅かったじゃない」 ぱたぱたとスリッパの音がして、香奈の母親が姿を現した。香奈の後ろに立つ光一郎を見て、母親が足を止めた。 「あら、どちら様?」 「あ、私はですね。神崎さんの担任をしております、遠藤と申します」 「まあ、それはどうも、初めまして」 頭を下げつつも怪訝な顔をしている母親に、香奈が声を掛けた。 「実は私、今日貧血で倒れちゃって。で、家まで送ってくれたの」 「あらー、そうなの。それはお世話になりました」 改めて頭を下げてから、母親が香奈を見つめた。 「で、もう大丈夫なの?」 「うん、平気。でね、お母さん。遠藤先生見て何か思い出さない?」 「え?」 香奈の言葉を聞いて、母親が光一郎を見つめた。そのまなざしに何となくもじもじとし始めた頃、母親が驚いた顔をした。 「もしかしてあなた、光一郎君?」 「そうですそうです、お久しぶりです」 「まあまあ、びっくりだわぁ。光一郎君、香奈の学校にいるの?」 「ええ。で、偶然担任をしてまして」 「あらー、不思議な縁があるものねぇ」 しみじみと言いつつ、母親が光一郎の前にスリッパを置いた。 「とにかく上がって。色々話を聞きたいわ。ご両親はお元気?」 「ええ、おかげ様で」 少し迷ったが、結局光一郎は勧められるままに家へと上がった。 リビングでは、父親がソファに座っていた。ソファの前にあるローテーブルには、ウィスキーとグラスが並んでいる。三人の足音を聞いて、父親が据わった目を上げた。 「おい、香奈!こんな遅くまでどこで何を」 そこで言葉を切って、父親が光一郎を見つめた。 「……何だ、おまえは」 「あ、あの。私はですね、お父さん」 「……お父さん?」 ゆらりと立ち上がりながら、父親が光一郎をにらみつけた。 「私は、君みたいなでかい男を育てた覚えはないが」 「いや……、そういう意味じゃなくてですね」 「それとも何かね。君は私をお父さんと呼ぶような立場なのかね。そういう立場になろうとしているのかね」 「いえあの。ですから、そんな深い意味はなくてですね」 父親の据わった目に怯える光一郎をかばうように、香奈が口を挟んだ。 「ちょっとお父さん、落ち着いてよ」 「そうよ、あなた。まずは私達の話を聞いて。はい、お酒」 さりげなく、母親が父親の手にグラスを持たせた。 「うむ、酒か……」 呟きつつ大人しくグラスを傾け始めた父親を、母親がソファに座らせた。 香奈と母親の説明を聞いて、ようやく父親が友好的な笑顔を光一郎に向けた。 「そうか、君は光一郎君か。いやぁ、大きくなったなぁ」 「ええまあ、育ち盛りなもので」 まだ少し怯えつつ、光一郎は答えた。 「あの、香奈……さんの担任になりながら、ご挨拶にも来ませんで申し訳ございません」 「いやいや、いいんだよ。君にも色々事情があるのだろうし。今日こうして、時間を作ってくれただけで十分だ」 「そうよ、光一郎君。気にしないでね」 両親の優しい言葉に安心して、光一郎は笑顔を浮かべた。 「いやぁ、お父さんお母さんにそう言って頂けると、ほっとします」 「……お父さんお母さん?」 「……あ」 しまったと思うと同時に、父親がゆらりと立ち上がった。 「君は何かね。我々をお父さんお母さんと呼ぶような立場なのかね。それとも、これからそういう立場になろうと」 「まあまあ、あなた。落ち着いて」 父親の言葉を遮って、母親がその手にグラスを持たせた。 「うむ、酒か……」 途端に大人しくなった父親を監視しながら、母親が香奈に声を掛けた。 「香奈、光一郎君をお部屋に連れてったら?」 「うん、そうする。光ちゃん、行こう」 「……はい」 素直に頷いて、光一郎はこっそりとリビングを抜け出した。 香奈の部屋に入ってから、光一郎は大きく息をついた。 「しかし、おまえの両親って変わってないなぁ」 「そう?」 「ああ。昔っから親父さん、酒飲むとおかしくなってたよなぁ。で、おふくろさんが上手に操縦してた気がする」 「うーん、そう言われてみれば、そうかも」 少し考えてから、香奈がくすっと笑った。 「あの二人は、たぶんずっと変わらないよ」 「だな、きっと」 頷いてから、光一郎は部屋をぐるりと見渡した。 六畳ほどの香奈の部屋は、結構きちんと片付いていた。ベッドとライティングデスク、テレビと本棚。部屋の片隅に、ウォーキングクローゼットらしき観音開きのドアがあった。 ふと、光一郎はデスクの横に張ってある紙に目を向けた。本をカラーコピーしたらしいその紙には、色鮮やかな魚の姿があった。 「……これは」 「ああ、それがアオタテジマチョウチョウウオだよ」 光一郎の横に並びながら、香奈が微笑んだ。 「この前水戸ちゃんが、学校に『ハワイの魚図鑑』を持ってきてくれたの。それ見てるうちに、段々みんなしてはまっちゃって。で、今じゃそれぞれ好きな魚決めて、ファンになってるの」 「じゃあ、世間的に魚が流行ってるわけじゃ」 「ないんじゃない、別に」 「ついでに聞くと、来年魚がブレイクするって話は」 「何それ。初めて聞いたけど」 きょとんとしている香奈から目を逸らしつつ、光一郎は思わずうなるように呟いた。 「あんにゃろう……」 「どうしたの?」 怪訝な顔をしている香奈に目を戻して、光一郎は首を振った。 「いや、何でもない。ありがとな、おまえのおかげで、ひとつ疑問が解けたよ」 「はあ。何だか知らないけど、お役に立てたんなら良かった」 首を傾げつつ、香奈がベッドに腰掛けた。気を取り直してその横に座りつつ、光一郎は改めて部屋を眺めた。 「それにしても、部屋って持主を表すよなぁ」 「え、そう?」 「ああ。この部屋、すごくきれいだ」 「……やだ、いきなりどうしたの?」 みるみるうちに頬を染める香奈を観察しながら、光一郎が言葉を続けた。 「いや、きれいってより、むしろさっぱりし過ぎってところかもな。女の子らしい飾り気がまったくない」 「……ちょっと。喧嘩売ってるの?」 むっとした表情の香奈を見て笑ってから、光一郎はベッドの枕元に目を向けた。 「あ、なんだこりゃ。派手な目覚しだなぁ」 「……ああ、それ?」 何故かぎこちなく笑いつつ、香奈が目覚ましに目を向けた。 「何か、派手なのがほしくて買っちゃった」 「へー。ちょっとこれ、鳴らしてみてよ」 「うん、いいよ」 デモ演奏のボタンを押した途端、目覚まし時計が派手に鳴り出した。じゃんじゃかじゃんじゃか音がすると同時に、たくさんの電球が点灯を始める。 「おお、すげぇなぁ。おまえこれ、毎朝眩しくないか?」 「うん、まあ少し眩しいけど。でもほら、眩しいくらいの方が、目が覚めやすいしね」 不自然に笑う香奈の顔を、光一郎は覗きこんだ。 「どうした?おまえ、何か変だぞ」 「そう?別に普通だよ」 「そうかぁ?」 怪しげにそわそわとしている香奈をしばらく見つめてから、光一郎は言葉を続けた。 「なあ、もしかしてこれ、わざと派手なの選んだんじゃないのか?目が覚めた時、暗いと恐いから」 「……あ、あの、えっと」 困った表情でうつむいた香奈が、思い切ったように顔を上げた。 「でもね、それだけじゃないんだよ。ほら、かわいいでしょ、これ。何か朝からじゃんじゃんばりばりいってる方が、景気良くていいかなって思って」 「……香奈」 呟きながら、光一郎は香奈を見つめた。その暗い声にかぶせるように、香奈が明るい声で言葉を続けた。 「ほらほら見てよ。七色の光が何かうきうきとした気分にさせるでしょ。朝からテンション上がっていいんだよ、これ」 「香奈」 一生懸命に話している香奈の腕をつかんで、光一郎はそっと抱き寄せた。 「……あ」 「ごめんな、香奈」 すっぽりと腕の中に収まった香奈が、しばらくしてから光一郎に声を掛けた。 「……ねえ、光ちゃん。私、今ふっと思ったんだけど」 「ん?」 「何かこの展開、少し作ったくさくない?」 「え、そう?」 「うん。もしかして、……わざとこういう方向に持ってった?」 「いや、だってさ」 香奈の頭を撫でながら、光一郎は少し笑った。 「せっかく合法的に二人っきりになれたんだし、少しは楽しまないと損かなぁと思って」 「……合法的ってそれ、何か違う」 「まあまあ、いいからいいから」 その意見を軽く流しつつ、光一郎は腕の中にいる香奈をじっと見つめた。 「香奈」 「え?」 「顔上げて」 「……はい」 恥ずかしそうに頷いて、香奈がゆっくりと顔を上げた。 と、突然部屋のドアがどんどんと打ち鳴らされた。 「香奈ぁ!」 「うわっ!」 驚いて体を離したと同時に、父親が部屋になだれ込んできた 「どういう事だ、俺を置いていくなんて!部屋で遊ぶんなら俺も混ぜろ」 真っ赤な顔で、香奈が怒鳴った。 「混ぜられません!もう、勝手に部屋に入らないでって言ってるでしょ」 「何だ、親に向かってその言い草は!そんな事言われると……お父さん寂しいじゃないか!」 「知らない!もう、いいから出てってってば、早く!」 ドアの付近で激しく言い争う親子を、光一郎は唖然として見つめていた。とふいに、光一郎の肩がとんとんと叩かれた。振り返ると、そこにはにっこりと微笑む母親がいた。 「あのね、光一郎君」 「……はい」 「今度から、香奈の部屋に入ったらすぐに鍵掛けちゃってね。その方が確実でしょ」 「……はい?」 「私も出来るだけ引き止めるようにするけど、意外に動きがすばやいのよ、あの人って」 ふうっとため息をついてから、母親が光一郎に目を戻した。 「光一郎君、香奈の事、くれぐれもよろしくね」 再びにっこりと微笑んでから、母親が父親に近づいて手にグラスを持たせた。 「さ、お父さん。リビングに戻るわよ」 「うむ、酒か……」 途端に大人しくなった父親を連れて、母親が香奈の部屋を出た。 「まったくもう!お母さん、お父さんの酒癖なんとかしようよ、本当に!」 ぶーぶーと文句を言いつつ、香奈もその場を立ち去った。 ひとり残された光一郎は、ぽつりと呟いた。 「……全部、お見通しってわけですか」 少ししてから、光一郎は逃げるように香奈の家を出た。 「俺、しばらく来ないぞ、ここには」 そう、呟きながら。 |