記憶を離れた、ある出来事 |
六、 おばけ屋敷は、空いている教室で作られている。一階にある職員室の真上。その教室に、二年E組の生徒達はこもり切りになっていた 放課後になると、様々な音が職員室に響いてくる。 職員室の机に向かう光一郎に、竹田が近づいた。 「ねぇねぇ。おたくのクラス、上で一体何やってるの?」 「何ってだから、おばけ屋敷ですよ」 「それは知ってるけど。でも、何でこんなに毎日うるさいの、どんどんがんがん」 「コースを作ってるらしいんですよ、ベニヤ板で。そのせいじゃないですかね」 「じゃあ、時々聞こえてくる絶叫は?」 「演技指導ですって。おばけの」 「……ふーん、演技指導ねぇ」 何となくこわごわと天井を見つめた竹田が、気を取り直したように光一郎に目を向けた。 「ところで、あなたは手伝わないでいいの?」 「入れてくれないんですよ、中に」 ふっと寂しく笑いながら、光一郎は答えた。 「完成したら、最初に見せたいからって」 「ふーん……」 光一郎の表情を見つめていた竹田が、隣の席に座って囁いた。 「それってもしかして、邪魔にされてんじゃないの?」 「やっぱり、そうなんですかねぇ」 不安な気持ちで、光一郎は思わず身を乗り出した。 「本当は俺、ものすごく寂しいんですよ。みんなと一緒に、汗と涙にまみれて作業したかったのに……」 切ないため息をついていた光一郎は、ふいに気がついて顔を上げた。 「あ、音がやんだ」 「あら、本当だ。完成したのかしら」 揃って天井を見上げていた二人は、しばらくしてから顔を下げた。すると、いつの間にかそこに水戸が立っていた。 「おお、どうした?俺に何か用か?」 とっさに席を立った光一郎には目もくれず、水戸が竹田に声を掛けた。 「竹田先生、少し時間ありますか?」 「え、私?うん、あるけど……何?」 「ちょっと、うちの出し物見てもらってもいいですか?客観的な意見が聞きたいんで」 思わず、光一郎は口を挟んだ。 「あの……。その役、俺じゃ駄目?」 「駄目だって言ってました、文化祭実行委員が。遠藤先生には、完成したら最初に見せるからって」 「……あ、そう」 がっくりと肩を落とした光一郎を見て、竹田がはげますように背中を叩いた。 「まあまあ、とりあえず教室の前まで一緒に行きましょうよ。ね?」 教室の外側には、まだ何の飾りつけもされていない。そして、窓という窓には暗幕が張られている。その殺風景な姿が、何やらとても無気味だった。 水戸が、竹田を促した。 「じゃ、竹田先生。お願いします」 「あ、はい」 どことなく緊張した様子で、竹田が教室に入って行った。数秒後、中から絶叫が響いた。 「うらめしい!」 「きゃー!」 その声を聞いて、光一郎は水戸に目を向けた。 「今の『うらめしい!』って声、飯塚だよね」 「はい。七美は幽霊その一です」 「……そう」 竹田が中に入ってから八分後。今度は後ろの出口方面から絶叫が聞こえた。 「うーらーめしやー!」 「きゃー!」 無言で目を向けた光一郎に、水戸が頷いて見せた。 「今のは幽霊その一〇。香奈です」 「……そう」 呟きつつ目を出口に向けると、竹田がひどくよろめきながら現れた。 思わず駆け寄りながら、光一郎は尋ねた。 「どうでした?」 「さ……、最初と最後のおばけがすご過ぎる」 「……そう、ですか」 呟いた光一郎に、竹田が真剣な目を向けた。 「遠藤先生、入り口に張り紙するように指導して下さい。高齢者の方やお子さんには大変危険な出し物ですよ、これ」 竹田の様子を見ていた水戸が、口を挟んだ。 「あの二人、相当気合入ってるんです。なんせ、遠藤先生とのおデート獲得権が掛かってるもので」 「おデート獲得権?何だそりゃ」 「おばけをより恐くするために、七美が提案したんです。お客さんにアンケート取って、一番恐いとされたおばけ役の子が、二日目の最後に遠藤先生とこの中を歩けるんですって。二人っきりで」 「……そんなの俺、聞いてないけど」 「ええ、言ってませんから。でもまあ七美の事だから、どんなに抵抗しても、無理やり先生の事連れ込むと思いますよ」 「……ひどい。俺の意思は尊重してもらえないのか?」 悲しい目をして呟く光一郎に、水戸がうっすらとした笑顔を向けた。 「まあ、いいじゃないですか。それでうちの出し物が盛り上がるんなら。じゃ、竹田先生、ご協力ありがとうございました」 小さく頭を下げてから、水戸が教室に入って行った。その後ろ姿を見送りながら、光一郎がぽつりと呟いた。 「何だよ。それじゃ結局、俺って利用されてるだけじゃないか」 その後ろで、竹田が額の汗を拭った。 「あなたはまだいいわよ。私なんて、単なる実験台じゃない」 「……悲しいですねぇ、教師なんて」 しみじみとため息をつく光一郎を、竹田が厳しくにらんだ。 「何を他人事みたいに言ってるの。遠藤先生、今日ラーメンおごりなさいよ」 「え、何で!」 「クラスの落とし前は、担任がつけるってのが筋でしょ。このままじゃ、私の腹の虫が治まらないのよ、いろんな意味で。いいわね」 「……はい。分かりました」 素直に頷く光一郎を背に、竹田が肩を怒らせ去って行った。残された光一郎は、空ろな目をして呟いた。 「……俺、転職しようかなぁ」 光一郎の落ち込みをよそに、目の前の教室では再びおばけ役の絶叫が響き始めていた。 自分の職業選択に疑問を感じつつ、光一郎は廊下の片隅にある自動販売機に向かった。紅茶のパックを買って、ため息混じりにストローを刺す。 目の前の廊下を、一年生達がにぎやかに通り過ぎていく。ふと、隣に誰かが立った気がした。 「若いですよね、あの子達」 目を向けると、七美が一年生を見つめていた。 「私にも、あんな頃があったんだなぁ」 「一年前の姿だろ、あれ」 光一郎の言葉に、七美がさらりと答えた。 「女は、一年で大きく変わるもんなんですよ」 「……あ、そう。そういうもんなんですか」 軽く頷きながら、光一郎はずずっと紅茶を飲んだ。 「ところで先生。ジュース、おごってくれません?今、持ち合わせがないんです」 「理由もなく、生徒におごる事は出来ません」 「じゃ、じゃんけん勝負。私が勝ったら、ジュース買って下さい」 「理由もなく、生徒とギャンブルする事は出来ません」 つれなく答える光一郎を、七美が少しの間見つめた。そしてふいに、大声を出した。 「じゃんけんぽん!あっち向いてほい!」 大声につられた光一郎は、思わず手を出し、顔を動かしてしまった。 「ふふふ、私の勝ちですね」 にっこりと微笑む七美をしばらく見つめてから、光一郎は無言で小銭を出した。 「ごちそう様です」 小銭を受け取った七美が、自動販売機に向かった。 パックにストローを刺しながら、七美が尋ねた。 「水戸ちゃんから聞いたんですよね、私達の賭けの事」 「ああ、おデート獲得権争奪投票の事な」 「うん」 頷いた七美が、光一郎の顔を覗き込んだ。 「そういう展開って、嫌ですか?」 「嫌だって言っても、やめてくれないんだろ?」 「ま、それはそうなんですけど」 さりげなく目を逸らしながら、七美が頷いた。 「勝手に決めて申し訳ないとは思ってます。でも私達、結構真剣なんですよ。少なくとも私と、たぶん香奈は」 「……神崎は、違うんじゃないか。そういうそぶり、見た事ないけど」 「あいつは奥手だから、自分の気持ちを素直に表せないんじゃないですか。でも、見てれば分かります」 「……まあ、仮にそうだったとしても。君達だって分かるよね。俺は、生徒の特別な感情に答える事は出来ないんだよ」 「もちろん分かってます。分かってるけど、一度気がついちゃった自分の気持ちには、嘘つけないし」 光一郎に目を向けて、七美が微笑んだ。 「今の時点で、気持ちに答えてほしいだなんて思ってません。自分が卒業するまで、節度は守るつもりです」 ふいに、光一郎を見上げる七美の目が真剣になった。 「私、本気です。この気持ちは誰にも負けない。香奈にだって負けない。それだけは、知っておいて下さい」 七美の強い視線から、光一郎は目を逸らせなかった。返事が出来ない光一郎に向かって、七美がジュースを目の前にかざした。 「これ、ありがとうございます。じゃ」 ぱたぱたと教室に戻って行く七美の背中を、光一郎は黙って見送った。 夜、行きつけのラーメン屋で。 小さくドアを開けて覗いている光一郎に、カウンターにいる大将が声を掛けてくれた。 「今日は生徒さん、誰もいないよ」 「あ、そうですか。じゃ、入ります」 ドアを開けて入店した光一郎と竹田に向かって、大将が笑顔を見せた。 「大変だねぇ、先生は。仕事の後でも生徒さんを気にしなきゃいけねぇんだから」 「ええ、まあ。生徒がいるところで仕事の愚痴なんか話せないですからね」 返事をしつつ、光一郎と竹田はテーブル席についた。 店員が伝票を構えるのと同時に、竹田が注文を告げた。 「私、スペシャルチャーシューワンタンメンに、ジャンボ餃子一・五人前ね」 「……毎回、ためらいもせずに一番高いラーメンを頼みますね、あなたは」 「だっておごってもらうんだもん。当たり前じゃない」 「ああ、そうですね。当たり前ですよね」 もはや逆らうのを諦めて、光一郎は店員を見上げた。 「俺も同じので。あ、餃子は一人前の奴でいいです」 店員が立ち去るのを見届けてから、竹田が光一郎に目を向けた。 「さっきの話の続きだけどね。あなたが飯塚さんに対して、罪悪感を抱く必要はないと思う」 「そうですかねぇ」 「そうなんじゃないの?だって、生徒に好かれちゃうなんて女子校教師の定めなわけだし。いちいち気にしてたらきりないわよ」 「おっしゃる通りなんですが。でも、この場合はなんつうか。……香奈の事があるわけですし」 「まあ確かに、香奈ちゃんと飯塚さんの立場が同じってところは痛いと思うけど。でもそれだって、単純に言えば『彼女がいる』ってだけの話だし」 箸入れから早くも割り箸を取り出しながら、竹田が眉をひそめた。 「大体、音楽室で彼女がいるか訊かれた時、どうしているって答えなかったの?」 「それは、……何となく」 「何となくねぇ。何ていうか、その辺があなたの不誠実なところっていうか、元・女ったらしなところの現れっていうか」 「俺、たらした事ないですよ、別に」 慌てて反論する光一郎に、竹田が鋭い目を向けた。 「高校生の時、バスケ始めてからもてまくってたんでしょ。で、もて過ぎちゃって今では恋愛にクールだって話じゃない」 「……それ、香奈から聞いたんですか?」 「まあね。あ、来た来た」 嬉しそうに、スペシャルチャーシューワンタンメンとジャンボ餃子一・五人前を受け取る竹田が見ながら、光一郎は呟いた。 「……あいつ、ややこしい事話しやがって」 「まあ、あの子が話したってより、私が無理やり聞き出したって感じだけどね。あ、お先にいただきます」 「どうぞ」 少し憮然としながら、光一郎は次に来たラーメンと餃子を受け取った。 しばらくの間、細い体に似合わない勢いでラーメンを食べていた竹田が、箸を止めて顔を上げた。 「でさぁ。もてまくってた時に、『好きだ』って言って来た子をやむなく振ったって事もあるわけでしょ」 「そりゃ、まあね」 「その時と同じじゃない。あなたが飯塚さんの気持ちに答えられないのは、やむを得ない事なんだから」 「まあ、いちいちおっしゃる通りですが。でも、昔と同じには考えられないんですよ。だって、俺は教師で飯塚は生徒なんです。俺が原因で生徒が傷つくってのは、やっぱり気が引けますよ」 「なぁに言ってんだか。青いよ、新人君」 首をゆっくりと振りながら、竹田がジャンボ餃子を箸でつかみ取った。 「結局ね、教師と生徒と言えども人間対人間なの。振る奴もいれば、振られる奴もいる。これから先、同じような事が何度もあるのよ。いちいち気にしてたら、仕事になんないわけよ。お分かり?」 「……ええまあ、分かるんですが」 何となくすっきりしない気持ちで、光一郎はラーメンをすすった。あいまいな返事をする光一郎に向かって、竹田がこんこんと自説を繰り返し話し続ける。 結局、この日も光一郎は、日付が変わるまで家には帰れなかった。 |