記憶を離れた、ある出来事


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四、

 次の日の放課後。職員室の机に向かっている光一郎の前に、水戸が立った。
「ん、どうした、水戸」
 表情を変えずに、水戸が答えた。
「先生、大変です」
「君が言うと、全然大変そうに聞こえないんだよなぁ」
「でも、大変なんです。教室で、あの二人が激しく喧嘩してます」
「……またかよ」
 ため息をつきながらも、光一郎は素早く立ち上がって教室に向かった。
 教室で、香奈と七美が険悪な顔で睨み合っていた。今にも取っ組み合いそうな二人の間に、光一郎は割り込んだ。
「おいおい、今度はどうした」
「ちょっと先生、聞いてくださいよぉ」
 光一郎の腕にしがみつきながら、七美が甘えた声を出した。
「香奈が、私の意見をことごとく却下するんですよぉ」
「あんたが適当な事ばっかり言うからでしょ」
 表情硬く、香奈が答えた。怒りのためなのか、その顔色は青白い。
「あんたの意見通りに材料揃えてたら、ものすごく予算オーバーするの。却下するのは当然でしょ」
「予算オーバーって。飯塚、一体どんな意見を出したんだ?」
「私はただ、おばけ役が二人くらい口から血を吐きながら、宙吊りになって教室中を飛び回ったらいいんじゃないかって、そう言っただけですよ」
「……予算ってより、物理的に無理だろう、それは」
 思わず呟いてから、光一郎は七美の説得に掛かった。
「飯塚、今回は神崎が正しいぞ。わずかな予算の中から、衣装とか画材とか色々なものを用意しなきゃいけないんだ。出来る事と出来ない事がある。分かるだろう?」
「分かります、分かりますよ。でもぉ」
 ますます甘えた声を出しながら、七美が光一郎の腕を持つ手に力を入れた。
「香奈ってすごい冷たい言い方するんだもん。私、傷ついちゃったんです」
 側にいた水戸が、七美に声を掛けた。
「香奈はさっきから具合が悪いの。だから、ちょっと淡々とした言い方になっちゃっただけだよ」
 その言葉を聞いて、光一郎は香奈に目を向けた。
「具合が悪いのか?大丈夫か、神崎」
「大丈夫……です」
 小さく頷いた香奈だったが、しかしその顔色はますます白くなっている。
「おいおい、ちょっと顔色が悪過ぎるぞ。保健室に行った方がいいんじゃないか?」
その言葉に答えず、香奈がふらふらと光一郎に近づいた。
「先生、七美から離れて」
「……え?」
「……そんなに、くっつかないでよ」
 呟いてから、香奈がいきなりその場に倒れこんだ。
「神崎!」
 香奈の前に膝をついて、光一郎は怒鳴った。
「どうした、神崎!」
「……おなか、痛い」
 香奈の返事を聞いて、光一郎は青ざめた。「心配するな!今、保健室に連れてくからな」
 大きな声を掛けてから、光一郎は香奈を抱き上げた。そのまま走り出した光一郎に合わせて、いつの間にか控えていた水戸ががらりとドアを開けた。
 全速力で走る光一郎の背中に、水戸が同じく走りながら声を掛けた。
「先生、あんまり振動を与えないで下さい」
「お、おう」
 水戸の言葉に少し冷静さを取り戻し、光一郎は一気にスピードを緩めた。そして、そろそろとすり足で、しかし最大限に急ぎつつ保健室に向かった。


 保健室に辿り着いた光一郎は、香奈をそっと寝かしてからベッドの側を離れた。光一郎に代わって保険医が、相変わらず顔色の悪い香奈に近づいた。
「どうしたのかな、貧血?」
 香奈が答えるより先に、水戸がとんとんと保険医の肩を叩いた。
「あの、私が説明します」
 耳元で囁かれた言葉に、保険医が大きく頷いた。
「ああ、なるほどね。あのね、神崎さん。そういう痛みは、我慢したからって治まるものじゃないのよ。痛み止めを飲んで、少し眠るのが一番いいの。今度からは、すぐにここに来なさい。いいわね」
「……はい、すみません」
 弱々しく答える香奈に、保険医がそっとふとんをかけた。
 おろおろしながらうろうろしていた光一郎は、ベッドを離れた保険医に、恐る恐る尋ねた。
「あのぉ。結局、腹痛の原因は何なんでしょうか?」
「あら、まだいたの?もう大丈夫だから、外に出てて下さい」
「いや、でもですね」
「いいから。とにかくもう、大丈夫だから」
 背中をぐいぐいと押して、保険医が有無を言わさず光一郎を外に追い出した。そしてドアを閉める瞬間、小声で囁いた。
「原因は、女の子の月一の痛みです。これくらいすぐに察するようになって下さいね、女子校の教師なら」
 そのままぴしゃりと閉じたドアを見つめて、光一郎は呟いた。
「……あ、なるほど」
 そして、何故か急に熱くなった頬を持て余しつつ、光一郎は大人しく教室に戻って行った。


 二時間ほどしてから、光一郎は保健室をそっと覗き込んだ。
「あの、うちの生徒はどうしてますか?」
「ああ、良く寝てますよ」
 保険医が笑顔で答えた。
「顔色もずいぶん戻ったし、もう起きてもいい頃ですね」
「そうですか、それは良かった」
 ほっとした光一郎は、何気なくベッドの前に掛かっているカーテンをめくった。ふとんの中で、香奈がすうすうと寝息を立てている。
光一郎の背中に、保険医が声を掛けた。
「こら!女の子が寝てる姿を覗く人がありますか」
「あ、すみません」
 思わず首をすくめたところで、香奈が薄く目を開けた。
「……ん」
「あ、起きたみたいですよ」
 光一郎の言葉を聞いて、保険医が顔を覗かせた。
「あら、本当だ。どう?気分は」
 もぞもぞと上体を起こしながら、香奈がぼんやりと答えた。
「大丈夫です。眠ったら楽になりました」
「そう、良かった。じゃ、気分がいいうちに帰ったほうがいいわね」
「はい」
 こっくりと頷いてから、香奈がベッドを抜け出し、立ち上がった。
「……あれ?」
 途端にくらりとよろめいて、香奈がベッドに腰を下ろした。
 それを見て、光一郎は保険医に目を向けた。
「まだちょっと、危ないんじゃないですか?私、神崎の家まで送ったりしちゃ駄目ですかね」
「そりゃ、その方が私も安心だけど。でも、うちの学校って男性の先生がそういう事するの、うるさいしね」
「だけど心配ですよ。途中でまた、倒れたりしたら」
「うーん、気持ちは分かるんだけど」
 保険医が悩み始めたところで、保健室のドアががらりと開き、竹田が顔を覗かせた。
「神崎さんの具合、どうですか?」
 竹田の姿を見て、光一郎と保険医の言葉が重なった。
「あ、この手があった」
「え、何?」
 怪訝な表情を浮かべる竹田に向けて、光一郎は爽やかに歩み寄った。
「竹田先生。生徒思いの先生を見込んで、お願いがあります」
 後ろから、保険医が口を挟んだ。
「大丈夫よ、遠藤先生。優しい竹田先生の事だもの。協力してくれるわよ」
「あの、え、何の話?」
 ひとりわけが分からず、竹田がきょとんとした顔で光一郎を見上げた。


 最寄駅から香奈の自宅に向かう道すがら、竹田がずっとぶつぶつ呟いていた。
「まったくもう。今日は早く帰りたかったのになぁ。でも、ついてかないと何かあったら困るし。でも、もうこんな時間だしなぁ」
「いつまでも何ですか、ぶつぶつと。みっともないですよ」
 非難する光一郎の横で、香奈がしょんぼりと頭を下げた。
「ごめんなさい。私のせいで、竹田先生にまで迷惑掛けちゃって」
「あ、違うのよ、神崎さん」
 歩きながら香奈の肩を抱き寄せて、竹田が微笑んだ。
「あなたはいいのよ、あなたは。一点の悪気もない人だから。私がこんなにぶつぶつ言ってる理由は、ただひとつ」
 言葉を切ってから、竹田が光一郎を指差した。
「君よ、君なのよ」
 さりげなく目を逸らしながら、光一郎は涼しい顔で答えた。
「俺が何か?」
「何かね、君からはものすごーい邪念を感じるんだけど、気のせいかしら」
「気のせいですよ、竹田先生。私のこの、澄み切った目を見て下さい」
 竹田に顔を近づけて、光一郎は真剣な表情で見つめた。少しの間、その端正な顔と向き合っていた竹田が、いきなり二本の指を突き出した。
「目つぶし!」
「うわっ、危ないなぁ!何するんですか」
「なめんじゃないわよ、新人教師。私にそういう手が通じると思ってんの?」
「……かわいくねぇなぁ」
「何か言った?」
「いえ、何にも」
 二人の応酬を見ていた香奈が、ぽつりと呟いた。
「竹田先生って、やっぱり大人だなぁ。私、あんな風に見つめられたら困っちゃう」
 心の底から感動しながら、光一郎は香奈の頭をしみじみと撫でた。
「本当にかわいいなぁ、おまえは」
「生徒に手を触れるな!」
 光一郎の手を振り払ってから、竹田がにっこりと香奈に向けて微笑んだ。
「大丈夫、あなたもすぐに平気になるから。いい?この新人教師はね、整った顔を武器にして、事を自分の思い通りにしようと画策する時があるのよ。だからそういう時は、一個のどてかぼちゃを相手にしてると思えばいいの」
「……どてかぼちゃ?」
「そう、どてかぼちゃ」
 大きく頷いた竹田から、香奈は光一郎に目を向け、しばし見つめた。そして、こっくりと頷いた。
「分かりました。努力します」
「いや、そんな努力しないでいいから」
 思わず、光一郎は呟いた。


 香奈の自宅前で、竹田が家を見上げた。
「ふむ、照明はついてるわね。おうちの方はいるの?」
「はい。この時間なら、両親とも揃ってると思います」
「分かった。じゃあ、私はこれで」
 とっとと背中を向けた竹田の腕を、光一郎はつかんだ。
「何か怪しいなぁ。何で今日はそんなに早く帰りたがるんですか?どうせ家に帰っても暇なんでしょ」
「失礼ね!そりゃいつもは結構暇だけど、今日は見たいテレビがあるのよ」
「見たいテレビって、何ですか?」
「……いいでしょ、別に何だって」
「気になるじゃないですか。そこまで言っといて秘密にしないで下さいよ」
「しつこいなぁ、もう」
 光一郎の追及に、竹田が諦めたようにため息をついた。
「……今日は、二時間サスペンスにいかりや長介が出るの」
「ちょ、長さん?」
 思わず、光一郎は吹き出してしまった。
「ちょっとやばいですよ、それ。竹田先生、ファザコンですか?」
 途端に竹田が、光一郎にきりっとした目を向けた。
「あんたにだけは言われたくないんだけど、このロリコン!」
「……否定はしません。ええ、否定はしませんよ」
「じゃあまあ、おあいこという事で」
「分かりました。お互い、その辺を責めるのはやめましょう」
 その場で硬く握手を交わす光一郎と竹田を見て、香奈が一歩後ずさりした。
「……何か、会話がものすごくえげつない」
「それが、大人になるっていう事なのよ」
 真剣なまなざしで言ってのける竹田の横で、光一郎は首を振った。
「いや、それは違う。絶対違う」
「ま、ともかく私はこれで帰るから。遠藤先生、あなたも早く帰るのよ」
「はいはい、分かってますよ」
 足早に道を戻る竹田の背中を見送りながら、香奈がぽつりと呟いた。
「大人になるのって、何だかすごく大変なんだね」
「……いいから、さっきまでの会話は全部忘れろ」
 結構真剣に、光一郎は答えた。



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