記憶を離れた、ある出来事


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三、

 放課後、光一郎はさりげなく香奈を呼び止めた。
「あ、神崎。ちょっといいかな」
「……はい」
 覇気がない表情で、香奈が振り返った。その香奈を廊下の隅に誘導してから、光一郎はこっそりと囁いた。
「そんなに気にするなって、大丈夫だよ。おばけ屋敷ったって、ずっと真っ暗なわけじゃないだろうし」
「少しくらい明るくたって意味ないんです。暗いところとおばけが両方揃ってるんですよ。大丈夫なわけないじゃないですか」
「……そうか」
 うつむいている香奈を、光一郎は困ったように見つめた。
「ごめんな。役に立てなくて」
「別に先生のせいじゃないから、気にしないで下さい。じゃ、また明日」
 そのままさっさと背中を向けた香奈の手を、光一郎は思わずつかんで引き止めた。
「ちょっと。ちょっと待ってくれ、神崎」
 振り返った香奈と光一郎は、一瞬見つめあった。途端に、二人の横で声が響いた。
「なぁにをやっているのかなぁ?」
「うわっ!出た」
 びっくりしてのけぞった光一郎を、いつの間にか現れた竹田が厳しくにらんだ。
「『出た』じゃないわよ、まったく。油断も隙もありゃしない」
 そのままきょろきょろと辺りを見渡した竹田が、側にある音楽室に目を向けた。
「二人共、ちょっと顔貸して」
 ひと気のない音楽室に二人を連れ込んでから、竹田はドアの前に立った。
「こうして私が立ち会っていれば大丈夫。さ、心行くまでもめてちょうだい」
「……あの。そこにあなたがいると、ものすごくもめにくいんですけど」
「大丈夫、口出しはしないから。空気だと思って」
「……はぁ」
 ぽりぽりと頭をかいてから、光一郎は気を取り直して香奈に向かった。
「香奈、ごめんな。かばいきれなくて」
「いいってば。光ちゃんのせいじゃないって言ったでしょ。私もう、文化祭の日は休むって決めたから」
「そんな、おまえ……。せっかくの文化祭を休むなんて、もったいないだろ?」
「いいよ、一回くらい。来年だってあるんだし」
「いいや、そんなの駄目だ」
 両肩をつかんで、光一郎は香奈を見つめた。
「来年もおまえの担任でいられるか分からないんだぞ。二人で一緒にいられる文化祭は、今年だけかも知れないじゃないか」
「……一緒になんて、いられないじゃない」
「……そりゃまあ、そうだけどさぁ」
 気まずい思いで、光一郎は香奈の肩から手を下ろした。ふいに、竹田が口を挟んだ。
「ねぇねぇ」
「……口出ししないとか言ってませんでしたっけ?」
「まあいいじゃない。細かい事は気にしないで」
 あっさりと光一郎の言葉をかわしながら、竹田が香奈に歩み寄った。
「ねえ、神崎さん。どうして文化祭が嫌なの?」
「……うちのクラスの出し物、おばけ屋敷なんです。それが嫌で」
「どうして?」
「私、暗所恐怖症なんです」
「暗所恐怖症?どうしてまた、そんな事になっちゃったの?」
「えっと、たぶん過去のトラウマのせいだと思うんですけど」
「何よ、過去のトラウマって」
 思わず、光一郎は口を挟んだ。
「あの、それについては俺から説明します」
 幼い頃、光一郎と香奈が隣り合って住んでいた時。
泣き止まない香奈に困り果てた光一郎は、香奈を連れて押し入れに入り込んだ。そして暗闇の中、懐中電灯の光だけで、当時はまっていた怪談を話して聞かせた。光一郎が一一歳、香奈が五歳の時だった。
その日から、香奈は暗いところにいるとパニックを起こすようになってしまった。そしてその症状は、今でも続いている。
 話を聞き終えた竹田が、きりっとした目で光一郎をにらんだ。
「遠藤先生。あなたって人は何をやってるの!」
「……すみません」
 二人の間に、香奈が割り込んだ。
「あの、光ちゃんを責めないで下さい。その件については私、もう気にしてないから」
「……神崎さん」
 振り返った竹田が、香奈を抱きしめた。
「あなたって何ていい子なの。本当に、遠藤先生みたいなどうしようもない男にはもったいないわ。悪い事言わないから、交際考え直した方がいいわよ」
 後ろから、光一郎がぽつりと呟いた。
「本人目の前にして、そこまで言いますか?」
「仕方ないでしょ。私の中で、あなたの株って下がる一方なんだから」
 しっしっと追い払う手つきをされて、光一郎は寂しく二人から離れて行った。
 と、突然ドアが開いた。
「あれ?遠藤先生、何してるんですか?」
「え?」
 振り向くと、そこには七美が立っていた。
「ああ。どうした、飯塚」
「どうしたって……。私は、ここに香奈がいるって聞いたから」
 答えた七美が、首を傾げて呟いた。
「おかしいなぁ。確かに、ここに香奈が入っていくのを見たって聞いたんですけど」
「ああ、神崎なら」
 振り返った光一郎の目が、宙で浮いた。
 香奈と竹田が、何故かその場にしゃがみこんで、机に身を隠していた。
「……何で?」
 思わず呟いた光一郎を、七美が不思議そうに見つめた。
「どうしたんですか、先生?」
「あ、いや。別に」
 首を傾げながらも、光一郎は七美の目が二人に届かないように、自分から歩み寄った。
「ここには俺しかいないけど。神崎に何か用なのか?」
「ええ。あいつ、部活やってない暇人ですから、文化祭の仕事思いっきり手伝わせようと思って」
「……あ、そう」
 何となく背後を気にしながら答える光一郎を、七美が探るように見上げた。
「あの、先生。……隠したり、してないですよね?」
「隠すって、何を?」
「何をって、香奈を」
「……ああ」
思わず視線を逸らした光一郎は、少ししてから改めて七美に目を戻した。
「そんな事してないよ」
「本当に?」
「ああ、本当に」
「……そうですか」
 じっと光一郎を見つめていた七美が、納得したように頷いた。
「分かりました、信じます。あいつ、帰っちゃったんでしょうね。明日からこき使うからもういいです。それより、先生」
 にっこりと笑った七美が、後ろ手にそっとドアを閉めた。
「初めてですね、二人っきりなんて」
「ん?」
 状況に気がついて、光一郎は軽く気持ちを引き締めた。
「ああ、そうだな」
 光一郎にそっと近づきながら、七美が再び探るように見つめた。
「先生って、彼女とかいるんですか?」
 少し考えてから、光一郎は答えた。
「いや、いないけど」
「でも、昔からずっともてたんでしょうね。だって、女の子かわすの上手だもん」
「いやいや、全然もてないよ。でもまあ、女の子をかわすのは上手かも知れないな。女子校の教師としては、仕事のうちだから」
「ふーん、なるほど。先生も色々大変なんですね」
「まあ、それなりにね」
 笑って見せた光一郎に向けて、七美がふいに真剣な表情を浮かべた。
「でも、私は簡単にかわされたりしませんよ」
「ほう、どうして?」
「私、こう見えて結構大人なんです。他の子達とは、一味違うはずですよ」
「……ほほう」
 挑戦的な言葉を聞いて、光一郎は七美に近づいた。
「飯塚、あまり自分を過信しない方がいいぞ」
「……どういう意味ですか?」
 眉を寄せた七美の顔を、光一郎は両手で挟んで持ち上げた。そしてゆっくりと顔を近づけながら、そっと囁いた。
「……君は、まだまだ子供だよ」
 ずさっと、七美が体を引いた。
 見る見るうちに顔を赤らめる様子を見ながら、光一郎は微笑んだ。
「な?」
「……悔しい。何でそんなに大人な対処が出来るの?」
「いやぁ、すまんね。歳が歳なもんで」
 呑気な声で答える光一郎を見ながら、七美がずりずりとドアまで後退し始めた。
「……今日のところは、このまま引き下がります。でも、まだ諦めたわけじゃないですからね」
「諦めなさい。一日で大人にはなれないんだから」
「やだぁ!絶対諦めないんだから!」
 怒鳴りながらも、七美が逃げるように音楽室を後にした。
 小さくため息をつきながら、光一郎が呟いた。
「やれやれ」
 その光一郎に向かって、竹田が立ち上がりながら声を掛けた。
「さすがねぇ。見事なかわしっぷりだわ」
「そりゃどうも」
 答えつつ、光一郎は竹田を軽くにらんだ。
「それにしても、何を隠れてるんですか。何のためにあなた、ここに同席したんですか?」
「ああ、ごめんごめん。思わず、条件反射的に」
 笑ってごまかしながら、竹田は光一郎に歩み寄り、肩に手を置いた。
「それにしても、ちょっと見直したわ。あなたって、意外とまともなのね」
「……それ、ほめてるんですか?」
「かなりほめてます」
「あ、そうですか。じゃあまあ、いいですけど」
 しぶしぶ納得しながら、光一郎は香奈に目を向けた。
「香奈、大丈夫か?竹田先生にいじめられなかったか?」
「うん、いじめられなかった」
 こっくりと頷いてから、香奈が複雑な表情で光一郎を見上げた。
「それにしても、光ちゃんってすごく上手に嘘つくんだね。私、ちょっとショック」
「え、何の話だ?」
「さっき七美に、何も隠してないってはっきり答えたでしょ。あれ、全然嘘っぽくなかった。私が七美でも、きっと信じちゃったと思う」
「……いや、ほら、あれはさぁ。ばれると色々面倒だから、俺は必死で」
「えー、それはどうかなぁ」
 竹田が口を挟んだ。
「必死な感じなんて全然しなかったけど。私も思ったもの。『あら、この人嘘が上手だわぁ』って」
「またそんな、ややこしい事言わないで下さいよ」
 思わずにらむ光一郎に動じず、竹田が香奈に目を向けた。
「でもまあ、いいじゃない。遠藤先生がどんなに上手に嘘ついたって、神崎さんが全部見抜いちゃえばいい話だもの」
「でも私、自信ないなぁ」
 視線を落とす香奈の肩に、竹田が手を置いた。
「大丈夫よ。この人って、なんだかんだ言っても結構単純そうだし。よーく観察すれば、きっとくせとか見つかるわよ。嘘つく時は鼻の穴がふくらむとか、耳がぴこぴこ動くとか」
「すいませんねぇ、単純な男で。というか、そんな分かりやすいくせなんかありませんよ」
 ぶつぶつと反論する光一郎を無視して、竹田が香奈の背中を押して、音楽室の外に連れ出した。
「要するに、常に自分が上手になってればいいの。大丈夫、女の子は男より早く精神的に大人になるから。そのうち、手の平で転がせるようになるわよ」
 そのまま、光一郎を振り返る事なくドアが閉められた。止める事も出来ずに見送った光一郎は、思わず呟いた。
「……あの人、絶対楽しんでる。俺達の仲を乱して喜んでいやがる。何て奴だ」
 何となくよろめきながら、光一郎は側にある椅子に腰掛けた。ふいに、以前竹田が言っていた言葉が脳裏によみがえった。
「『女は、どんどん変わっていく』かぁ。もし香奈があんな奴になっちゃったら……。どうしよう」
 新たな難題を抱えて、光一郎は頭を抱えた。
 しばらくの間、光一郎は椅子から立ち上がる事が出来なかった。



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