記憶を離れた、ある出来事 |
一、 次の日の朝、校門前にて。 立ち番である光一郎は、暖かい日差しの中で大きくあくびをした。 「なぁに?その大あくび」 同じく立ち番である竹田が、こっそりと光一郎に声を掛けた。 「立ち番やってる教師がそんなんじゃ、生徒に示しがつかないじゃない」 「……誰のせいだと思ってるんですか」 同じくこっそりと答えた光一郎と竹田の間を、生徒達が朝の挨拶をしながら通り過ぎる。教師二人は笑顔を作り、にっこりと頷いて見せた。 生徒達の背中を見送ってから、竹田が再び光一郎に囁きかけた。 「私のせいだって言うの?」 「昨日、深夜のラーメン屋で、日が変わるまでとうとうと話し続けていたのはどこのどなたでしたっけ?」 光一郎の厳しい追求を受けて、竹田がさりげなく目を逸らした。 「……ま、教師も人間だものね。大あくびのひとつやふたつ、仕方ないって事で」 「分かってくれればいいんですよ、分かってくれれば」 竹田の素直な態度に、光一郎は満足して頷いた。 その時ふと、校門に続く道のはるか向こうから、誰かが言い争う声が聞こえてきた。 うんざりした表情を浮かべながら、竹田がため息をついた。 「まったくもう、朝っぱらから喧嘩だなんて若いわねぇ。一年生かしら」 その横で、光一郎はぽつりと呟いた。 「いや、何か聞き覚えのある声ですよ、あれは」 はたして、前方からずんずんと歩いて来るのは神崎香奈(かんざき かな)だった。光一郎の幼馴染であり、受け持ちのクラスの生徒でもある。 「なぁにやってんだ、あいつは」 思わず呟いてしまった光一郎に向かって、竹田が答えた。 「仕方ないんじゃない。相手が飯塚さんじゃ、逃れようがないだろうし」 「あ、隣にいるあれは、飯塚ですか」 「そう。で、二人の後ろで特に喧嘩を止めもせずに歩いてるのが、水戸(みと)さん」 「ああ、確かに水戸はいつも神崎と一緒にいますよね。でも、飯塚は意外だなぁ」 「飯塚さんには、他に仲のいい子がいるからね。でも、時々神崎さんに喧嘩売ってくるみたいよ」 「喧嘩売るって、何でですか?」 「よく分かんないけど気に食わないみたい、神崎さんの事が」 「ヘー……」 竹田の言葉を聞いて、光一郎は教室での様子を思い浮かべてみた。 飯塚七美(いいづか ななみ)は、クラス内のいわゆるムードメーカーだ。持ち前の明るさとリーダーシップを駆使して、クラスをまとめ上げて行く。その手法は時にあざやか、そして時にはひやひやするほど強引だったりする。 対してクラス委員である香奈は、かなりの穏健派である。元々争いを好まないタイプで、強引な手を使う七美を良く思わない生徒達に対しても、常にフォローを忘れなかったりするのだった。 そんな風に争いを避ける様子しか知らない光一郎にとって、ずんずんと校門に近づきながら険悪に口喧嘩をしている香奈の姿は、かなり意外だった。 「神崎って、あんな激しい一面もあるんですね」 「あのねぇ。言っとくけどあの子は、売られた喧嘩は間違いなく買うタイプよ」 「へー……」 自分の知らない香奈の一面に多少ショックを受けつつ、光一郎は三人の生徒を見つめた。その様子を、竹田がちらりと横目で見た。 「しっかりしてよ、遠藤先生。もう半年も担任やってるんだから、そろそろ生徒の裏の顔、見抜かなきゃ」 「……努力します」 神妙に頷いた光一郎の目の前で、香奈と七美がぴたりと足を止めた。黙って自分を見つめる様子に戸惑いつつ、光一郎は恐る恐る挨拶をした。 「……やあ、おはよう」 無言で光一郎を見上げる香奈と七美に向けて、二人の後ろから水戸が声を掛けた。 「ねぇ、このまま言い争っててもらちがあかないと思うんだけど。いっその事、遠藤先生に決着つけてもらったら?」 水戸の提案を聞いて、香奈と七美が頷いた。 「なるほど。さすが水戸ちゃん、いいアイデアね」 「私は別にいいよ。香奈が反対じゃないんなら、その方向で進めましょう」 勝手に何かを決めている三人を見渡しながら、光一郎は再び恐る恐る声を掛けた。 「あの、何の話?」 その問いには答えず、水戸が光一郎を見上げた。 「先生」 「……はい」 「香奈と七美、どっちが好きですか?」 「……はい?」 「何言ってるのよ、水戸ちゃん!違うでしょ」 慌てた顔で、香奈が水戸の腕をつかんだ。七美も、後ろから背中を引っ叩く。 「どさくさにまぎれて何言ってるのよ、あんたは」 「ああ、ごめんごめん。ああいう風に訊いちゃった方が、話が早いかと思って」 すました顔で答えてから、水戸が再び光一郎を見上げた。 「失礼しました、そうではなくてですね。実は今、香奈と七美はそれぞれに好きなものをかばい合って、言い争いになってるんです。ですからこの際、遠藤先生にそれらの優劣をつけてもらえればと思いまして」 「いやいや、勘弁してくれよ。俺にはそんな役、荷が重過ぎる」 思わず、光一郎は本気で首を振った。 香奈を押しのけるようにして、七美が光一郎を見つめた。 「大丈夫。先生が決めてくれるなら、恨みっこなしって事にします」 押しのけられてむっとした顔をしてから、香奈も頷いた。 「お願いします、先生。こういうのって、第三者に決めてもらうのが一番平和的だし」 「……恨みっこなしって、本当かよ」 こっそりと呟いてから、光一郎は覚悟を決めた。 「よし、分かった。可愛い生徒達の頼みだ。その大役、引き受けよう。で、二人がかばい合ってるものって何なんだ?」 「それはですね」 言葉を切った水戸が、大きく息を吸い込んだ。 「アオタテジマチョウチョウオとペプルドバタフライフィッシュ、です」 しばらくの間無言で水戸を見つめていた光一郎は、ふと我に返って尋ねた。 「……あの、何と何だって?」 「ですから」 言葉を切って息を吸い込んでから、再び水戸が答えた。 「アオタテジマチョウチョウウオとペプルドバタフライフィッシュ、です」 「アオ……え?」 頭が真っ白になってしまった光一郎の腕を、七美がつかんだ。 「ねえ、先生。どっちがきれいだと思います?絶対にペプルドバタフライフィッシュの方ですよね」 「何言ってるのよ。絶対にアオタテジマチョウチョウウオだってば!」 にらみ合う香奈と七美に対して、光一郎は口を挟んだ。 「あの、ちょっと待って。今の……、何?」 途端に、香奈と七美が声を揃えて叫んだ。 「えー、知らないんですかぁ?」 「……知らない」 何となく恥ずかしい思いがこみ上げる光一郎に向けて、香奈が勢いよく迫った。 「本当に知らないんですか?アオタテジマチョウチョウウオって言ったら、体に走る八本の線がすごく美しいって業界でも有名な、ハワイの代表的な魚じゃないですか!」 「……業界って、魚業界?」 思わず尋ねた光一郎に、七美が香奈と同じように迫った。 「騙されちゃ駄目ですよ。本当に有名なのは、ペプルドバタフライフィッシュの方なんです。小石のような点々と、縦に走る線が可愛らしい、ハワイを代表する魚なんですよ、ペプルドバタフライフィッシュってのは!」 「……いや、あの。そんなに熱く語られても困るんだけどね。想像できないし」 その呟きを無視して、香奈と七美が二人して光一郎に迫った。 「ね、先生。七美に言ってやって下さい。本当に美しいのは、アオタテジマチョウチョウウオだって」 「ああ、うるさい!先生、もうばしっと言ってやって下さい。真に美しいのは、ペプルドバタフライフィッシュの方だって」 「ちょっと。いい加減にしなさいよ、あなた達!」 らちがあかなくなってきた空気を破るように、いきなり竹田が割り込んだ。 「いつまでも遠藤先生を困らせるんじゃないの。仕方ないでしょ、遠藤先生はアオタテジマチョウチョウウオもペプルドバタフライフィッシュも知らないんだから」 そしてくるっと光一郎に顔を向け、慰めるようにそっと肩に手を置いた。 「いいのよ、遠藤先生。恥ずかしがる事なんて何もないわ。アオタテジマチョウチョウウオとペプルドバタフライフィッシュ。どっちも知らなくたって、人は生きて行けるから」 「……あの、何ですらすら名前言えるんですか?そんなに有名な魚なんですか?」 「それにしてもね」 光一郎から目を離して、竹田は香奈と七美に顔を戻した。 「あなた達、まだまだ子供ね。何も分かっちゃいないわ」 不満げな顔で、香奈と七美が竹田をにらんだ。 「ひどーい、そんな言い方」 「どういう意味ですか?それ」 「二人共、良く考えてみなさい」 言葉を切って、竹田がふっと笑った。 「本当に美しい、そしてハワイを代表する魚と言えば。それは、ハナグロチョウチョウウオなんじゃなくって?」 「……おー!」 香奈と七美が、揃って感嘆の声を上げた。 「そっかぁ!やだ、私ったらハナグロチョウチョウウオの事、すっかり忘れてました」 「そうですね。言われてみれば確かに、美しさでの代表格はハナグロチョウチョウウオかも知れません」 深く納得する二人の肩に手を置いて、竹田が大きく頷いた。 「分かってくれればいいの。二人が賛成してくれて、私も嬉しいわ」 一気に和やかになった空気の中、校門前にチャイムが鳴り響いた。我に返ったように、竹田が二人の背中を押した。 「さ、もうすぐ始業の時間よ。早く教室に行きなさい」 「はーい。竹田先生、ありがとうございました」 非常に素直に小走りで下駄箱に向かう二人を見送ってから、竹田が満足げに微笑んで職員室に戻って行った。 その様子を呆然と見つめていた光一郎の背中が、つんつんとつつかれた。振り返ってみると、そこにはうっすらと微笑む水戸が立っていた。 「ちなみにですね。ハナグロチョウチョウウオっていうのは、柔らかい珊瑚をえさとして生きている、体調一八センチほどの魚なんです。本当に、美しいですよ」 そのまま背中を向けて歩き出す水戸の腕を、光一郎はつかんで引きとめた。 「ちょっと待ってくれ」 ゆっくりと、水戸が振り返った。 「何ですか?」 「あの、もしかして。……世間では今、ハワイ原産の魚が流行ってるのか?」 真剣なまなざしの光一郎に向けて、水戸が同じように真剣に頷いた。 「流行ってるんですよ、先生。すでにキャラクターグッズや歌も出ているくらいです」 「……本当なのか?本当なのか、水戸?」 「すみません、嘘です」 「え……」 あっさりとした答えを聞いて、光一郎は思わず水戸の腕から手を離した。そんな光一郎に再びうっすらと微笑んで見せながら、水戸が校門に向かう。 不思議な余韻を残しつつ立ち去る水戸を見送りながら、光一郎は呟いた。 「……結局どっちなんだ。嘘?それとも本当?」 その答えは分からぬままに、光一郎は一時間目を迎える事となった。 |