記憶を離れた、ある出来事


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オープニング〜大人達の会話〜

 時刻は、午後一〇時。
 とある女子校の印刷室で、遠藤光一郎(えんどう こういちろう)はプリントの印刷に追われていた。その印刷室に、同僚の教師である竹田(たけだ)が顔を出した。
「ちょっと、新人君」
 手を止める事なく、光一郎は返事をした。
「何ですか、先輩」
「もう一〇時回ってるのよ。日直としては、そろそろお帰り願いたいんですが」
「え、もうそんな時間ですか」
「やだ、気づいてなかったの?」
 慌ててばさばさとプリントをまとめだした光一郎を見て、竹田が呆れたようにため息をついた。
「しょうがないなぁ。優しい先輩が手伝ってあげよう。これ、切ればいいのよね?」
「あ、はい、すみません。その辺にあるのはもう、ざっくり行っちゃって下さい」
「はいはい」
 その辺にあるプリントをとんとんとまとめつつ、竹田が内容に目を走らせた。
「それにしても、あなたって本当にプリント好きよねぇ。もう無理に課題出したりしてない?」
「人聞きが悪いなぁ。元々、無理なんかさせてませんよ」
「そう?ならいいけど」
 そのまま、二人はしばらく無言で作業を進めていた。
 先に口を開いたのは、竹田だった。
「ねえ。香奈ちゃん、元気?」
 光一郎の手が、一瞬止まった。
「……何言ってるんですか。今日、職員室で話してたくせに」
「あれは、神崎さん。私が聞いてるのは、香奈ちゃん」
「何か、違いがあるんですか?」
「つまりね。学校では見せない、あなたにしか見せない顔をした香奈ちゃんはどうしてるのかって、私は訊いてるの」
「……竹田先生」
「なぁに、遠藤先生」
「それを聞いて、どうするつもりなんですか?」
「別にどうもしないけどぉ。でも、ちょっぴり興味があるのよね」
 揃えたプリントを裁断機で一気にざくっと切ってから、竹田が顔を上げた。
「あのね、これはここだけの話にしておいてほしいんだけど……」
 声をひそめた竹田につられて、光一郎は顔を上げた。
「何ですか?」
「私ね、あなた達見てると楽しくて仕方ないの」
 しみじみとそう言ってから、竹田がにんまりと笑った。
「特に、香奈ちゃんね。あのマイペースというか傍若無人というか、そういう子がよ。職員室なんかで一生懸命自分の気持ち隠してあなたと話してたりするじゃない。そういうの見てると、もうおかしいやら可愛いやらで私、たまらなくなるのよぉ」
 くすくすと笑い出した竹田を見つめていた光一郎は、やがてぽつりと呟いた。
「……性格悪ぅ」
「ふむ。まあ、そういう面がある事を認める事に関しては、やぶさかではないわね」
 あっさりと頷く竹田を見て、光一郎は抵抗するのを諦めた。
「元気ですよ、香奈は。まあでも、電話でしか素に戻れないところがもどかしいみたいですけどね」
「そりゃそうよねぇ。その辺がすごくかわいそうなのよね、あなた達の場合」
「まあ、仕方ありませんよ。幼馴染って事は秘密にしてるわけだし」
「そうなのよね。うちの校長、男女交際に対して異常に目を光らせるタイプだから。幼馴染なんて知ったら、それだけで警戒しだすでしょうしね」
 言葉を切った竹田が、光一郎にちらりと目を走らせた。
「でもやっぱり、お互い愛情抱き合って熱々で、『光ちゃん、香奈』と呼び合っちゃっててる二人としては、苦しいところよねぇ」
「そうですね。まったくおっしゃる通りです」
 表情を変えずに答える光一郎に、竹田が不満の声を上げた。
「淡々としてて、全然面白くないんですけど」
「俺はもう、照れる歳でもないですから」
「……ちぇ。つまんないの」
 しかしそれでも、竹田の追及がしつこく続いた。
「ねぇねぇ。あなたは、香奈ちゃんのどこに惚れたの?」
「それ、答えないといけないんですか?」
「うーん、そうねぇ。私には、答えろって命令する権利はないけど」
 言葉を切った竹田が、目の前に積まれたプリントを左手でぽんぽんと叩きつつ、何も置いてない裁断機を右手でがちゃがちゃいわせた。
「……分かりましたよ」
 ため息をついてから、光一郎は話し始めた。
「久しぶりに会っても、あいつは小さい頃のままだったんです。小さい頃に別れたまま、何ていうか、純粋さが残ってた」
「ふむふむ」
「たぶんね、あいつも色々経験してきてると思うんですよ。つらい事とか悲しい事とか、それなりに。だけど、あいつはそういうのをまったく感じさせない。すれてないんですよね」
「うん、確かに」
「だから、だと思いますよ」
「え?」
「香奈に惚れた理由です。すれてないあいつを見て、すごく可愛く感じたんです。あいつを、守りたいと思った。で、こうして色々なリスクとか先輩のいじめなんかにも耐えて、愛を育んでるわけなんですよ」
「……なるほど、素敵なお話ねぇ」
 光一郎の嫌味を聞き流し、竹田がうんうんと頷いた。
「でもね、人生の先輩として一言だけ注意しておくけど。あなたはまだ、重大な事を分かっていないと思うのよ」
「重大な事って?」
 怪訝な表情を浮かべる光一郎を見つめつつ、竹田がにんまりと笑った。
「女はどんどん変わるわよぉ。一〇代後半から二〇代にかけて、良くも悪くも、それはもう見事なまでに変わっていくんだからねぇ」
 にまにまと笑い続ける竹田を見つめていた光一郎は、やがてぽつりと呟いた。
「……恐っ!」
「でもまあ、あの子は変わらないかも」
 光一郎の様子を見て、竹田が普通ににっこりと微笑んだ。
「あなたの心がけによっては、だけどね」
「……努力します」
「そうそう、たっぷり努力しなさい」
 光一郎の素直な態度に満足げな表情を浮か
べていた竹田が、ふいに自分の腹を押さえた。
「……あ」
「どうしたんですか?」
 その問いには答えず、竹田が真剣な顔を光一郎に向けた
「ねえ、遠藤先生」
「何ですか?」
「帰りに、ラーメンおごって」
「……どうして俺が?」
「だって、おなか空いちゃったし」
「答えになってないじゃないですか」
 光一郎の言葉に対して、竹田が手に持ったプリントを乱暴にひらひらさせた。
「いいじゃないのよぉ。仕事手伝ってんのよ、こっちは。ラーメンぐらいおごりなさいよぉ」
「……とうとう開き直ったよ、この人は」
呟いてから、光一郎は大きくため息をついた。
「分かりました、おごりますよ。おごればいいんでしょう」
「分かればいいのよ、分かれば。じゃ、頑張ってこの仕事終わらせて、夜の街に繰り出しましょう!」
 途端に、竹田がてきぱきと作業をこなし始めた。そんな竹田をよそに、光一郎はこっそりと、財布の中身を確かめた。


 かくして、大人達の会話は夜のラーメン屋へと場所を変え、延々と続けられるのだった。



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