五、
扉を開けた朗は、そのまますたすたと足を進めた。その後ろで固まっている美弦に、淳が説明した。
「要するに、ノックを三回してから行きたい場所を口にすると、そこに行けるってわけ」
「あ、そう」
ぼんやりと、美弦が答えた。
「なんか、びっくりし過ぎて疲れちゃった」
「そうだね、大変だよね」
同情を込めた表情で、淳がうんうんと頷いた。
朗は、部屋の中央にある大きな机の前で足を止めた。
「連れてきましたよ、理事長」
「はい、ご苦労さん」
返事を聞いて、美弦が呟いた。
「理事長さんって、女の人?」
美弦の言葉に、朗は振り返って答えた。
「そう。うちの理事長はこの通り、ばあさんなんだよ」
「ばあさんとはなんだい。ご婦人と言え、ご婦人と」
朗の頭が引っ叩かれた。
「痛ってぇな」
頭を押さえながら、朗は理事長を睨み付けた。
「ご婦人って柄じゃねぇだろ、あんたは」
「うるさい。まったく、しつけのなってない男だね。親の顔が見たいよ」
「じゃあ、とっとと実家に帰って息子の顔でも見て来いよ」
美弦が首を傾げた。
「朗の親が、理事長の息子?」
淳が頷いた。
「要するに、朗は理事長の孫ってわけだ」
「まあ、不肖の孫って奴だがね」
口を挟んだ理事長が、美弦に歩み寄った。
「あんたが満の片割れだね。名前は?」
「えっと、美弦です。片岡美弦です」
「美弦、だね。いい名前だ」
穏やかに微笑んだ理事長が、しわしわの手を美弦の頭に乗せた。
「何も恐がる事はないんだよ。きちんと自分のなすべき事をすれば、いずれ必ず元の世界に戻れる。私も、ちゃんとここに戻れたんだからね」
「元の世界?」
美弦が、きょとんとした顔で理事長を見つめた。
「それは、夢から覚めるって事ですか?」
「夢?」
眉をひそめた理事長が、朗に目を向けた。
「どういう事だい?」
「いや、あの」
迫力のある理事長を見て、朗は思わず頭を下げた。
「すいません、とっさに口から出ちゃって」
理事長が、大きくため息をついた。
「まったく、おまえって奴は」
美弦が、不安げに口を挟んだ。
「あの、夢ですよね、これ」
朗の背後に回って、理事長が背中を押した。
「おまえが答えな」
「え、俺が?」
「他に誰がいる」
じろりと睨み付けられて、朗は小さく息を吐いた。
「分かったよ」
覚悟を決めて、朗は美弦を見た。美弦の目に、不安が広がっていた。
「嘘ついて悪かった!」
朗は、美弦に向かって頭を下げた。少ししてから、美弦の声が聞こえた。
「夢じゃなかったの?」
「ああ」
「じゃ、ここは何なの?」
「おまえのいた世界とは違う、もうひとつの世界だ。おまえは、この世界にいる奴と入れ替わりにここに来たんだよ」
「……どういう意味だか分かんない」
「これからちゃんと説明するから。とにかく、悪かった!」
朗は、更に深く頭を下げた。やがて美弦が、朗に声を掛けた。
「顔、上げて」
美弦の声に促されて、朗は頭を上げた。静かな表情の美弦が、朗を見つめていた。
と、いきなり美弦が朗の頬を両側からつねった。
「ひ、ひたい!」
「やっぱり、痛いの?」
「ひゃい、ものふごくいあいれふ」
「そう」
手を離して、美弦がうつむいた。
「本当に、嘘ついてたんだね」
「……ごめん」
朗は、美弦の肩に手を置いた。
「触らないでよ、あんたなんか大嫌い!」
手をはねのけた美弦が、背を向けて走り出した。扉の前に辿りついて、乱暴にノックする。
「私のいた所!」
扉を開けた美弦の前には、冷たい壁しかなかった。
「なんでよ。ひどいよ、こんなの」
激しくドアを閉めた美弦が、しばらくしてから、再びノックした。
「朗の部屋!」
扉を開けた美弦が、その中に飛び込んだ。
朗は、ただ呆然とその様子を見ているしかなかった。
「何、ぼけっとしてんだい」
いきなり、朗の頭が引っ叩かれた。
「ぼやぼやしないで早く後を追うんだよ」
「追うって、美弦を?」
「他に誰を追うつもりだい、あんたは」
「いや、でもさ。もしかしたらいい機会かも知れないぞ」
後ろ頭をさすりながら、朗は言葉を続けた。
「俺達はこのまま離れた方がいいんだよ。その方がお互いのためなんだよ、きっと」
「なに言ってるんだい。おまえはこれからずっとあの子の面倒見るんだよ」
「え?駄目だって。やばいからそれは」
「やばいもへったくれもない!私がそうしろって言ったらそうするんだよ」
理事長が声を荒げた。
「とにかく、おまえは今すぐあの子の側に行くんだ。泣いてる女の子をこれ以上ほっとくつもりかい?おまえはそんなに冷たい男なのかい?」
「分かったよ。行けばいいんだろ、行けば」
諦めて、朗はため息をついた。重い足取りで扉に向かい、ノックする。部屋に入った朗は、二段ベッドに目を向けた。
「あの、美弦?」
ベッドから、かすれた声が返ってきた。
「ごめん、今は話したくない」
「分かった」
朗は頷いた。
「でも俺、他に行く場所がねぇんだ。ここにいてもいいかな?」
「……うん」
「悪いな」
追い出されなくてほっとした朗は、こたつに入って寝転んだ。美弦のすすり泣く声を聞きながら、朗は天井を見つめた。
どのくらいの時間が経ったのか。ふいに、美弦の声が聞こえた。
「ねえ、朗」
朗は、慌てて起き上がった。
「ん、なんだ?」
「私は、元の世界に戻れるの?」
「ああ」
力を込めて、朗は頷いた。
「絶対に戻れる。俺が戻してやる」
「絶対?」
「ああ」
「本当に絶対?」
「ああ」
「分かった」
ふいに、ベッドのカーテンが開けられた。美弦が、ベッドから飛び降りて朗の前に着地した。肩まである髪が下ろされている。白い肌に、その黒髪はとてもよく映えていた。
ぼんやりと見とれる朗に向けて、美弦がにっこりと微笑んだ。
「もう一度だけ、朗の事信じてあげる。だから絶対!元の世界に戻してね」
その極上の笑顔を見て、朗は思わず天を仰いだ。
「ああ、きっついなぁ、それ」
「え?きついって、元の世界に戻すのが?」
「いや、そうじゃなくて!」
朗は慌てて首を振った。
「大丈夫。絶対おまえを元の世界に戻すよ。約束する」
「うん、信じてるからね」
頷いた美弦が、こたつに足を入れた。
「さてと!みかんでも食べようかな。のど渇いちゃった」
そのままけろりとみかんを食べ始めた美弦を見ながら、朗は心の中でため息をついた。これからしばらく気が休まらないんだろうなぁ。そう覚悟しながら。
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