一二、
目が覚めた朗は、目覚まし時計を手に取った。
「七時五〇分。もう起きるか」
首をぽきぽき鳴らしながらカーテンを開けると、そこに美弦が立っていた。
「あ、おはよう」
「……おはよう」
思わず、朗は美弦から目を逸らした。
「どうした?今朝はずいぶん早起きだな」
「やだ、私だってたまには早起きくらいするよ」
にっこりと微笑んだ美弦が、朗の腕を取った。
「それより、お腹すいてない?良かったらこれ、食べて」
「お、おいおい、何だよ」
引き寄せられるままこたつに向かった朗は、そこにサンドイッチを見つけた。
「どうしたんだ、これ」
「私が作ったの。おばあちゃんに材料もらって」
「あ、そう」
呟いた朗は、恐る恐る美弦を見た。
「あのさ、何でいきなりこういうの作ってくれるわけ?」
「え?」
美弦が、目を泳がせた。
「理由なんてないよ。ただ、作りたくなっただけ」
「へー……。ま、あるよね、急にサンドイッチ作りたくなる時って」
こたつの前に座った朗の横に、美弦がしゃがみ込んだ。
「あのねあのね、こっちの列が卵サンドなの。で、こっちがトマトとハムのサンド。ね、トマトって好き?」
「うん、嫌いじゃないよ」
「そう、よかった。じゃ、どうぞ食べてください」
「あ、はい。いただきます」
朗は、サンドイッチに手を伸ばした。一口頬張った朗を、美弦が不安げに見つめた。
「どう?」
「うん、うまいよ」
「ほんとに?」
「ああ」
美弦が、ほっと息をついた。
「良かったぁ。こんな簡単な料理だけど、全然自信なかったんだ」
「いや、うまいよ、うん。ほんとほんと」
何度も頷きながら、朗はこっそりと美弦の様子を探り見た。その視線に気がついた美弦が、ぽっと顔を赤らめた。
「やだ、そんなにじろじろ見ないで」
「……うわ、駄目だぁ、俺」
急にひっくり返った朗の顔を、美弦が覗きこんだ。
「どうしたの?喉に詰まったの?大丈夫?」
「いや、大丈夫。だからアップで迫らないで、頼むから」
慌てて起き上がり、朗は次のサンドイッチをつかんだ。
全てのサンドイッチを飲み込んでから、朗は立ち上がった。
「ちょっと俺、淳のところに行ってくる」
「うん、分かった」
にっこりと、美弦が微笑んだ。
「でも、早く帰ってきてね。ひとりじゃ寂しいから」
「……はい。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
手を振る美弦に背を向けて、朗はよろめきながら部屋を出た。
叩き起こされた淳が、不機嫌な顔で廊下に出てきた。
「なんだよ、朝っぱらから」
「頼む、何とかしてくれ!俺はもう、どうしたらいいか分からないんだ」
眠そうに目をこする淳に向かって、朗は満との話を聞かせた。
「ふーん、なるほどね」
話を聞き終えた淳が、ぼりぼりと背中をかいた。
「で、おまえは俺にどうしてほしいわけ?」
「とにかく二人っきりにしないでくれ。今の俺達を野放しにしておくのは危険過ぎる」
「あ、そう。じゃ、着替えたら行くよ」
「頼む。その間に俺は、理事長のところに行ってくるから」
「ん?そりゃまた何で」
「何でって決まってるだろ。部屋を変えてもらうんだよ」
「ふーん、部屋をねえ」
淳が、じっと朗を見つめた。
「おまえさ、本当にそれでいいの?」
「それでいいって何が?」
「美弦の事好きなんだろ?なのに、このまま離れちゃってもいいのか?」
「おまえねぇ、話ちゃんと分かってる?」
いらいらと、朗は淳を睨んだ。
「美弦が本気で俺を好きになったら、元の世界に戻る時にどれだけ傷つくか!」
「別にいいんじゃないの?どんなに傷ついても、おまえらが真剣であるんなら」
「……ちょっと待て。突然そんな建設的な事を言われても困る」
淳のセリフを、朗は手で制した。
「大体これは、美弦の片割れである満の意見なんだよ。だから正しい。美弦のためには、こうするのが一番なんだ」
「あ、そう。まあ、おまえがそう思うんならいいけどな」
淳が、諦めたようにため息をついた。
「じゃ、俺は美弦と部屋にいるから。おまえはとっととどこにでも行っちまえ」
バタンと閉められたドアを、朗は憮然として眺めた。
「何なんだよ、あいつ。腹立つな」
淳の態度にすっきりしないものを感じながらも、朗は扉に向かった。
ちゃぶ台の前で、理事長がお茶をすすった。
「で、おまえはどうしてほしいんだい?」
「……まったく、どいつもこいつも。ちゃんと俺の話を聞いてるのか?」
ため息をついてから、朗はちゃぶ台を叩いた。
「頼むから部屋を変えてくれ!俺はこれ以上我慢出来ないんだ」
「我慢って、何を?」
「ここで言えるならとっくに言ってるよ!」
声を荒げる朗を前にして、理事長が再びお茶をすすった。
「そんな大声出しても、部屋は変えないよ」
「何でだよ!このままじゃ俺達、深い仲になっちゃうぞ!」
「深い仲ねぇ。いいんじゃないのかい、別に」
「……おいおい。何言ってんの、理事長が」
呆れて勢いがなくなった朗を、理事長がきりっと睨んだ。
「大体ね、私はあんたの心根が情けないよ。どうして美弦の気持ちを受け止めてあげないんだい?」
「いや、だって受け止めちゃったら」
「美弦が傷つくっておまえは言うが、美弦は傷つくのを恐がっていないかも知れないじゃないか。むしろ、恐がってるのはおまえの方だと思うがね」
思いがけないセリフを受けて、朗は言葉に詰まった。
「……そうかも知れない。恐いのは俺だけかも知れないよ。だけど俺、あいつが傷つくのを見たくないんだ」
「朗、考えてごらん。何をしたら美弦が傷つくのか、それは本人にしか分からないんだよ。あの子から逃げようとしているおまえの気持ちを知った時、あの子が傷つかないと何故おまえは思うんだい?」
「それは……」
答えられない朗は、思わずちゃぶ台に突っ伏した。
「ああもう!じゃあさ、俺は一体どうすりゃいいわけ?」
朗の背中に、理事長が手を乗せた。
「だからね、おまえは堂々とあの子の側にいればいいんだよ。物事は全て、なるようになるんだ。じたばたするんじゃないよ、みっともない」
「……ばあちゃん」
顔を上げて、朗は理事長を見つめた。
「そりゃ、あんたくらい年寄りになれば腹くくれるだろうよ、失うものは何もないしな。でも、俺みたいな若者はそう楽観的に生きられないんだよ」
「可愛くないね、おまえは!」
理事長が、朗の頭を引っぱたいた。
「じゃあ、好きなようにしたらいいさ。なんだい、人が親身になって話聞いてりゃ調子に乗って!」
「ああ、好きなようにするよ!何だよ、こんなとこに来たって何の足しにもなんねぇよ!」
ささくれ立った気持ちで、朗はその部屋を後にした。
その日の午後。三人は、朗の部屋にいた。
コタツに向かってぼんやりしている朗。同じくコタツに向かって研究書を読む淳。
窓の前に座っている美弦が、じっと外の風景を眺めていた。
ふと、朗は顔を上げた。
「ああ、暇だ。おい、まだ手がかりは見つからないのか?」
「いや、なかなか進まないんだよ。この人の本って読みづらくてさ」
「読みづらいって、要するに難しいのか?」
「そうじゃなくて、自慢話とか他の研究者に対する批判とか、そんなのばっかなんだよ」
「何だそりゃ、面白そうじゃないか。ちょっと貸してみろ」
「駄目だ」
本に伸ばした朗の手を淳が避けた。
「途中でやめるのは気持ち悪い。こうなったら絶対に読破する」
「何だよ、いいから貸せって」
淳にしつこく絡む朗に、美弦が声を掛けた。
「ねえ、朗」
「は、はい」
突然声を掛けられて、朗はびくっとしながら美弦を見た。
「何でしょう」
「ちょっと外を散歩しない?日差しが気持ちいいよ」
「うーん、そうだなぁ。えっと」
口ごもりながら、朗は淳に視線を投げた。本から目を離さずに、淳が口を挟んだ。
「いいんじゃないか?二人で行って来いよ」
「淳、おまえなぁ……」
小声で抗議する朗を無視して、淳が美弦に目を向けた。
「外は寒いだろうから、しっかり着込んで行けよ」
「うん、そうする」
コートを手にとりながら、美弦が朗に歩み寄った。
「ね、行こう」
「いや、あの、ちょっと待て」
両手で制する朗を見て、美弦が顔を曇らせた。
「私と出かけるの、嫌?」
「嫌、……じゃないです」
「よかった」
美弦が、にっこり微笑んだ。
「じゃ、行こうよ。ほら、早く!」
「お、おい。ちょっと待て。俺のコートが」
腕を取られた朗は、かろうじてコートとマフラーを手にして引きずられるように部屋を出た。
「まったく、うっとうしい男だ」
残された淳が、再び研究書に目を落とした。
冬の冷たい風が、草の間を通り抜けていく。朗は、先を行く美弦の背中を見つめた。美弦の長い髪が、強い風にかき乱されている。小さな背中がとても寒そうに見えた朗は、横に並んでマフラーを差し出した。
「ほら」
美弦が首を振った。
「いいよ、朗も寒いでしょ」
「いいから、ほら」
無理やりマフラーを渡されて、美弦が嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そっけなく歩く朗の顔を、美弦が覗きこんだ。
「ねえねえ、ひとつ聞いていい?」
「何だよ」
「朗って、彼女とかいるの?」
「いるように見える?」
「あ、やっぱりいないんだ」
美弦が、小さく笑った。
「ふふ、うふふふふふ」
「何で笑うんだよ」
「笑ってなんかないよ」
とぼけるように言ってから、美弦が先に立って歩き出した。
「ねぇ、朗。私、この世界が好きだよ」
「……そうか」
「うん、好き」
頷いた美弦が、言葉を続けた。
「この世界なら、どんなに強くても嫌われないもの。私、すごく嬉しかったんだ。
勝っちゃった私を朗が受け止めてくれて。だって、自分の世界ではみんな冷たかったから」
言葉を切った美弦が、目を伏せた。
「最初はみんな誉めてくれるの。『強くてすごい』って。でも、そのうち恐くなるみたい。気味悪くなってうとましくなって、それでみんな離れて行っちゃうの」
「ひでぇ話だな」
「うん。でも、しょうがないと思う。確かに私、変だもん」
「んな事ねぇよ」
「ううん、変なの。自分でも分かってる。でも朗は」
立ち止まって、美弦が朗を見上げた。
「朗は離れていかなかった。『おまえより強くなる』って言ってくれた。それがすごく嬉しかったの。居場所を、もらえた気がした」
にっこりと笑った美弦が、いきなり朗に抱きついた。
「本当にありがとう。私、あなたに会えてすごく嬉しい」
「……美弦」
少し迷ってから、朗は美弦の背中に手を廻した。
「俺も、おまえに会えて嬉しいよ」
「うんうん、うんうん」
腕の中で、美弦が何度も頷いた。その温かさを心地よく感じながらも、朗は実は、とても途方に暮れていた。
その日の夜。ふと気がつくと、朗はやはり白い空間にいた。覚悟を決めて待っていると、やがて満が、肩を怒らせながらやってきた。
先手必勝で、朗は深々と頭を下げた。
「悪かった!」
「この胸のときめき、どうしてくれる?」
「だから、悪かったってば」
「今度は一体何したの!」
「いや、だってさ。ああいう状況になったらああせざるを得ないって、男なら」
軽く開き直りつつ、朗は状況を説明した。
「なるほどね」
満が、しぶしぶ頷いた。
「まあ、抱きしめ返した朗の気持ちも分からなくはない」
「だろ?」
「だけどね、美弦をそういう気持ちにさせちゃった原因は朗なんだよ。拒否しろとまでは言わないけど、そういう空気を作らないようにするのが君の役目だろ?」
「はい、すいません」
「まったくもう」
朗を睨み付けていた満が、しばらくしてからため息をついた。
「それにしても、美弦にとって裏の世界は、本当に居心地が悪かったんだね」
「そうだな」
頷いてから、朗は尋ねた。
「おまえはどうなんだ。そっちで嫌な思いしてないか?」
「それがね、すごく居心地がいいんだ。僕は武道が苦手だから、そういう実力が必要ないこの世界は、すごく僕向きな気がする」
「へー、そうなんだ」
朗は、少し拍子抜けした。
「まあ、嫌な思いしないで済んでよかったな」
「うん、そうだね」
頷いた満が、何かを考えるようにうつむいた。しばらくして、朗は声を掛けた。
「おい、どうした?」
「あのさ、僕と美弦にとって、元に戻るのは本当にいい事なのかな?」
その言葉を聞いて、朗は鼻で笑った。
「まさか、戻って来ないつもりじゃないだろうな」
「ねえ、朗はどう思う?」
満が、真剣に朗を見つめた。
「お互いに、今の世界の居心地がいい。好きな人も側にいる。それでも、僕達は元の世界に戻るべきなのかな?」
「……勘弁してくれよ」
朗は、思わず目を逸らした。
「俺に聞くなよ、そんな事」
「あ、ごめん。ひどい事聞いてるね、僕」
朗の表情を見て、満が目を伏せた。
「だけどね、朗には考えてほしいんだ。だって、僕達の運命を決めるのは君なんだもの。君が美弦を元に戻す方法を探さなかったら、僕達はずっとこのままなんだから」
目を合わせない朗を、満が見つめた。
「朗、これだけは覚えといて。僕は、どんな結果になっても受け止めるよ。美弦も、きっとそうだと思う。だから」
「頼む、頼むから!」
朗は思わず叫んだ。
「頼むから、もうやめてくれ!」
「……朗」
その場に座り込んだ朗の背に、満が手を置いた。
「ごめん、また来るね」
朗の周りに白い霧が立ち込め、やがて目が覚めた。肩で息をしながら、朗は痛む頭を抱えた。
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