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八、

 昼休み。沙知達は女三人で屋上に上がった。



 あれから、もう一ヶ月経っていた。

 三人の頬をなでる風も、心地よい涼風に変わっていた。

 沙知は真っ青な空を見上げながら、大きく息を吸い込んだ。

「気持ちいいねぇ、秋晴れの空って。見てるとなんか、心まで晴れ渡って行きそう」

「随分詩的な事言うじゃないの」

 香苗が沙知に、からかうような目を向けた。

「いいよねぇ、幸せ者は。たぶん、何を見ても素敵に美しく見えるんでしょうね」

「香苗、ひがまないの」

 茜が口を挟んだ。

「そういうのって、かえって虚しくなるだけよ」

「そりゃまあ、そうだけど。でもこの幸せそうな顔を見てると、どうしてもからかってみたくなっちゃうの」

 香苗が、沙知の頬を両側から引っ張った。

「ほれ、どうだ。痛いか?」

「ひゃめろー」

 苦情を言いながら香苗の手から逃れた沙知に、茜が優しい目を向けた。

「沙知」

「ん?」

「よかったね」

「……うん」

 こっくりと頷いて、沙知は二人に向き直った。

「二人には、すごく色々支えてもらってた。ほんとに、ありがとね」

「……なぁに言ってんだか」

 香苗が、照れくさそうに笑った。

「お礼なんか言わないでいいから。その代わり、いつか私達に協力してよね」

「うんうん、それはもう、当然」

 何度も頷いて見せながら、沙知は身を乗り出した。

「で、今現在お二人に好きな人は?」

「……え?」

 香苗と茜が、ちらっと視線を交わした。

 一瞬早く、茜が香苗に水を向けた。

「香苗は、どうなの?」

「え、私?……私は、そのぉ」

 困ったように俯く香苗の顔を、沙知は嬉しそうに覗き込んだ。

「あ、なんか怪しいぞぉ」

「怪しくありません!ていうか、そんな目で見るな!」

 香苗が、少し赤くなりながら沙知の頭を叩いた。

「私は、今のところは別に、ご協力頂くような状況じゃないから」

 茜がにっこりと微笑んだ。

「それにしては、何となくしどろもどろじゃない?」

「……うるさぁい」

 赤い顔のまま、香苗が茜を軽く睨んで見せた。

「そういう茜はどうなのよ?」

「ああ、私は」

 ふっと笑って、茜が空に目を向けた。

「私はいいの。しばらくはこのままでいたいから」

 沙知は、茜の横顔を見つめながら尋ねた。

「このままって、誰とも付き合わないって意味?」

「うん」

「好きな人がいないって事?」

「……えっとね」

 微笑を浮かべたまま、茜が沙知に体を向けた。

「昔、色々あったの。で、その時感じてた自分の気持ちにまだ決着がつかなくって。だから、私はまだ誰の事も好きになるつもりはないの」

「……昔、色々」

 沙知は、思わず噛み締めるように呟いた。

「それって、中学生が言うセリフ?」

 沙知の横で、香苗が何度も頷いて見せた。

「ほんと、とてつもなく大人な発言よね。私なんか、この先二〇年くらい使えないセリフな気がする」

 二人の言葉を聞いて、茜がくすっと笑った。

「いいんじゃない。こんなセリフなんて、一生使えない方がいいと思うし」

「茜……」

 呟いて、沙知は真剣な表情を浮かべた。

「もし、その気持ちに決着がついたら。そしたら、誰かを好きになろうね。私、絶対協力するから」

「……ん」

 曖昧に答えた茜の顔を、沙知はすがるように見つめた。

「あのね。私、茜に焼きもち妬いた事があるの。もしかしたら、その罪悪感なのかも知れないけど……。分からないけど、でも私、誰かと一緒にいる茜が見たいよ」 

 言葉を切った沙知に、茜が目を向けた。その目を受け止めながら、沙知は言葉を続けた。

「一緒に笑って、一緒にいろんな事乗り越えて。そういう人がいるのって、すごく素敵な事だと思うから。だから、茜もそういう人見つけよう。私、三人で好きな人の事、いっぱいいっぱい話したいよ」

 静かな表情で聞いていた茜が、ふいに沙知を抱きしめた。

「……ありがとう。私、沙知のそういうところ、大好き」

「あ、えっと……、なんか照れるなぁ」

 何故か少し顔を赤くしながら、沙知は照れくさそうに笑った。

 ふと屋上のドアが開き、新と一樹が姿を現した。

 抱き合う二人を見て、新がぼそっと呟いた。

「あ、浮気されてる」

 沙知から体を離した茜が、いたずらっぽい表情を浮かべながら新に目を向けた。

「ねえ、新。沙知の事、譲ってくれない?」

「あ、悪いけどそりゃ駄目だ」

 三人に近づきながら、新がさらりと答えた。

「俺は、こいつを誰にも渡すつもりないから」

「あらそう、残念。じゃあ、一つだけ約束して」

 茜が、新の目をまっすぐに見上げた。

「沙知の事、大切にしてね」

 茜の目を受け止めた新が、ふっと笑った。

「分かった。約束する」

 新と茜の後ろで、一樹が沙知に顔を向けた。

「なんか変じゃないか?こういう会話って普通、男同士で交わされるものなんじゃないの?」

 沙知は小さく頷いた。

「うん……。なんか、私も複雑な気持ち」

 香苗が口を挟んだ。

「いいんじゃないの?それなりに絵になってるし」

「まあ、そう言われてみればそうだな」

 納得したように頷いた一樹が、頭をかいた。

「それにしても、新は大人だよなぁ。あんなに堂々としたセリフ、俺にはとても言えん」

 香苗が、複雑な表情で一樹を見上げた。

「感心してないで、あんたも精神的にもっと成長しなさいよね」

「なんだよ、それ。自分だって言えないタイプだろ?」

「女の子はいいの!でも、男がそれじゃ困るでしょ。いざって時にびしっと言えるようになってなきゃ」

「いいよ。いざって時には実力行使に出るから。こう、いきなり抱きつくとかして」

「なにそれ。ムードも何もないじゃない」

「いいだろ、別に。俺には俺のやり方があるんだからさぁ」

 沙知はしばらく、黙って二人の話を聞いていた。そしてふいに、一樹に向かって言葉を掛けた。

「ね、一樹。今、誰か好きな人いるの?」

「え、俺?……俺は、そのぉ」

 困ったように俯く一樹の顔を覗き込んで、沙知は何事かを理解したように大きく頷いた。

「あ、もういい。なんか分かったから」

「分かったって、何が?」

「ふっふっふ」

 不敵に笑って見せながら、沙知は二人の顔を交互に見渡した。

「……秘密」

「なんだよ、気になるじゃねぇか」

「そうよ、何考えてるの、沙知。言いなさいってば」

「駄目。秘密ったら秘密」

 笑顔で答えた沙知は、新と茜に目を向けた。

「ね、そろそろ戻ろう」

「おう、そうだな」

 笑顔で頷いた新を確認してから、沙知はみんなに背中を向け、歩き出した。

 ふと、沙知は空を見上げた。

 澄み渡るような青空の下で、この時の沙知は、心の底から幸せを感じていた。




 ―放課後。

 部活に向かうため更衣室で着替えていた沙知の肩を、香苗が叩いた。

「ねえ、沙知。外に神谷がいるの。あんたの事呼んでるんだけど」

「神谷が?なんの用だろ」

「さあ、よく分からないけど。でもどんな用事にしろ、早いとこ済ませちゃった方がいいんじゃない?もうすぐ部活だし」

「うん、そうだね」

 頷いて、沙知は香苗の後に続いた。

 更衣室を出たところで、神谷が沙知に目を向けた。

「悪いな、沙知。呼び出したりして」

 一瞬顔を逸らして、沙知は小声で呟いた。

「……まったくもう。名前で呼べっていつ言った?」

「ん、なんか言ったか?」

「別に、何も」

 気を取り直して、沙知は神谷を見上げた。

「で、私になんか用?」

「ああ」

 答えた神谷が、香苗にちらりと目を走らせた。

「その前に、場所変えてもいいか?」

 眉を寄せた香苗が口を挟んだ。

「私には聞かせたくない話ってわけ?」

「まあ、そういう事だな」

 冷静に、神谷が答えた。

 神谷を睨みつけながら、香苗が沙知の腕をつかんだ。

「沙知、行かないでいいよ。何されるか分かったもんじゃないから」

「え、でも……」

 腕を引かれて歩き出した沙知に向かって、神谷が声を掛けた。

「聞いておいた方がいいぞ。これからも、あいつと一緒にいるつもりなら」

 沙知は、ぴたりと足を止めた。

「……あいつって、新?」

「ああ」

 神谷が軽く頷いた。

 しばらく考えてから、沙知は香苗に顔を向けた。

「香苗、心配しないで。大丈夫だから」

「ちょっと、ついてくつもり?」

 香苗が、驚いたように沙知を見た。

「やめなよ、行っちゃ駄目!」

 声を強めた香苗の横を、神谷が余裕の表情で通り過ぎた。

「心配するな、話するだけだから」

 言葉を切った神谷が、香苗を振り返った。

「……あいつには言うなよ」

 香苗が、低い声で答えた。

「私って、素直に言う事聞くタイプに見える?」

 神谷が小さく笑った。

「だったら、好きにしろ」

 そのまま歩き出した神谷の後を追いながら、沙知は香苗に笑顔を向けた。

「本当に大丈夫だから。すぐに戻るね」

 沙知の背中を見送ってから、香苗が呟いた。

「大丈夫なわけないじゃない。ものすごく嫌な予感してるんだからね、私」

 大きくため息をついた後、男子更衣室に歩み寄り、香苗がどんどんと大きくノックをした。

「ちょっと!新いる?」

 上半身裸の一樹がドアを開けた。

「どうした、香苗。そんなに大きな音立てて」

「ちょっと、セクハラ!なんか着なさいよ」

 顔を赤くしながら、香苗が慌てて目を逸らした。

「なんだよ、自分からノックしたくせに。というか、この際だからしっかり見ておけ、俺のこの肉体美を」

 なにやらポーズを取り始めた一樹の鼻先で、香苗はぴしゃりとドアを閉めた。

「……馬鹿!」

 そのまま憤然と歩き始めた香苗の背中に、スポーツウェアを着込みながら一樹が声を掛けた。

「ちょっと待てって。新に何の用なんだ?」

 大またで歩きながら、香苗が答えを返した。

「今は説明してる暇ないの!あんたも新を探して。大至急だからね」

 香苗の横に並びながら、一樹が怪訝な表情を浮かべた。

「なんだ、そりゃ。また何かあったのか?」

「もう!いいから早く」

「おいおい、それが人にものを頼む態度か?」

「あのね、一樹。誤解があるようだから言っておくけど」

 足を止める事なく、香苗が言葉を続けた。

「これは、お願いじゃなくて指令なの」

「指令って、おまえなぁ」

「……何よ。まだなんか言いたい事があるわけ?」

 ぴたりと足を止め、香苗が一樹を見上げた。その迫力のある眼差しを見て、一樹はすばやく背中を向けた。

「……いいえ、何もありませーん。探してきまーす」

 小走りに走り出した一樹を確認してから、香苗は教室に向かって足を速めた。




「ねえ、神谷。話って何?」

 足を止めた沙知は、神谷の背中に声を掛けた。

「その前に、一つ約束してほしいんだけどな」

 振り返りながら、神谷が沙知に目を向けた。

「話の途中で逃げるなよ。もし逃げるんだったら、質問に答えてからにしてくれ」

「……私が逃げたくなるような話なの?」

「場合によってはそうなるかもな」

 不安げな表情を浮かべながら、沙知は俯いた。

「そんな事、約束出来ないよ」

「じゃあ、話は出来ねぇな」

「それは駄目。このままじゃ気になって夜眠れないよ」

「だったら約束してくれ。絶対、逃げるなよ」

 しばらく悩んでいた沙知は、やがて小さく頷いて見せた。

 それを確認してから、神谷が口を開いた。

「あんた、新のどこに惚れたんだ?」

 いきなりな質問に、沙知の顔が赤く染まった。

「な……、なんでそんな事あんたに言わなきゃいけないの?」

「答えてもらわないと、この先の話が出来ないんだよ」

「……そんなぁ」

 呟くように反論した沙知は、やがて諦めたようにぼそぼそと答え始めた。

「えっと。新は強いし、優しいし。それに、……私の事、好きだって言ってくれた」

「なるほどね。あんたらしい理由だな」

 神谷が、少しだけ表情を緩めて笑った。

「そういう純粋さってのは、今時貴重だな」

「……それって、誉めてくれてるの?」

「ああ」

「そう。じゃあ、ありがと」

 恥ずかしそうに笑顔を浮かべた沙知を見て、神谷が少し視線を逸らした。

「……でもな、だからこそ俺はあんたが心配なんだよ」

「心配って?」

 不思議そうに、沙知は神谷を見上げた。その目を受け止めた神谷が、ふいに真剣な表情を浮かべた。

「あんたは、新の何を知ってるんだ?」

「え?」

「一年の時、あいつが何を考え、どういう事をしてきたのか。そういうのを全部知ってて、あんたはあいつと付き合ってるのか?」

 神谷を見つめる沙知の顔に、戸惑いの表情が浮かんだ。

「それって、どういう意味?」

「新は、あんたが考えてるような完璧な奴じゃない。もっとずっと弱いし、汚い部分もある。付き合うんだったら、そういう部分も知っておいた方がいいんじゃないのか?」

「……どういう意味だか全然分からないんだけど」

 探るように呟いた沙知から、神谷が目を離した。

「ちょっと待ってろ。すぐに本人が来るだろうから」

 沙知が疑問の言葉を投げ掛けるより早く、ばたばたと足音が聞こえて来た。

 顔を向けると、新が勢いよく走り寄ってくるところだった。その後ろには、香苗と茜の姿も見えた。

 沙知の前に立ちはだかった新が、肩で息をしながら神谷に厳しい目を向けた。

「神谷、どういうつもりだ。沙知をこんなところに呼び出して」

「どういうつもりだ、か。それはこっちのセリフだな」

 神谷が、新の目を真っ向から受け止めた。

「新、おまえはこのまま何も教えずに沙知と付き合うつもりなのか?」

「……どういう意味だ」

 新が呟いた。その新に向かって、神谷が小さく笑って見せた。

「優しくて、いい奴で、誠実。おまえは、そういう仮面をかぶったままでこいつと付き合うつもりなのかって訊いてんだよ」

「神谷、おまえ……」

 言葉を失ったように、新が口をつぐんだ。それをかばうように、茜が神谷の前に進み出た。

「神谷、何を言い出すつもりなの?」

「おまえもおまえだよな、茜」

 すぐに、神谷が切り返した。

「沙知の一途な気持ちを知ってて、それでもおまえはあの事を黙っているつもりなのか?」

「……それは」

 一瞬声をつまらせた茜が、気まずい表情で言葉を続けた。

「あれはもう、昔の事でしょ。知らないままでいた方がいい事だってあるじゃない」

「それは沙知本人が決める事だ。おまえらが決める事じゃない」

 茜の言葉を、神谷が冷たく切り捨てた。

 その場に、緊張した空気が漂った。

 やがて、沙知は何かを決意したように顔を上げた。

「教えて、神谷。私が知らない事って何なの?」

 その声を聞いて、新が言葉を挟んだ。

「待ってくれ、沙知。俺が話すから」

 沙知は、硬い表情の新に目を向けた。


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