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素 直 な 気 持 ち で |
一一、 その日は休日だった。 悩むあまり寝付けない毎日を過ごしていた沙知は、この日珍しく深い眠りについていた。 そんな沙知の知らないところで、物語はすでに動き始めていた。 緊張した表情で、新は家を出た。 休日の早朝。街はまだ、眠ったままだった。 新は、ジーンズのポケットに手をやった。何度も書き直してようやく完成させたそれは、きちんとそこに収まっていた。 大きく息を吐き出しながら、新はまっすぐに顔を前に向けた。 「……よし、行くか」 小さく呟いて、新はゆっくりと歩き出した。 三〇分ほど歩いた新は、一軒の家を見上げた。 小さな敷地に、いくつかの日本家屋が納まっている。そのうちの一つから、男達の太い掛け声が響いて来ていた。 新は木戸の前で足を止めた。そこに掲げてある「神谷」という表札を、新は懐かしい思いで見つめた。 少ししてから、新はインターホンに手を伸ばした。 「はい、どなた?」 女性の声が響いた。 「お久しぶりです。俺、新です」 「あら、新くん。ちょっと待っててね。今開けるから」 がちゃりと通話が切れた。しばらくしてから母屋の引き戸が開く音がし、やがて目の前の木戸が開けられた。 一年振りに会う神谷の母親が、新に明るい笑顔を見せた。 「久しぶりね、新くん。元気だった?」 「はい。俺も親父も元気です」 「そう、良かった。全然顔出してくれないから心配してたのよ」 神谷の母親が、優しい笑顔を浮かべながら新の頭をそっと撫でた。 「あ、そうそう。うちの子に会いに来てくれたのよね?あの子まだ、朝の稽古中なのよ。ちょっと中で待っててね」 「あの、ちょっと待って下さい」 家に招きいれようとする母親を、新は引きとめた。 「俺、今日はこういうつもりで来たんです」 言葉と共に、新はポケットから封書を取り出した。そこに書かれている言葉を見て、母親の笑顔がすぅっと消えて行った。 「……新くん。言っとくけど、これが冗談だったら怒るわよ」 「冗談じゃないです」 「本気、なのね?」 「はい」 真剣な顔で頷く新を見て、母親がきちんと向き直った。 「分かりました。では、こちらにどうぞ。今師範に取り次ぎます」 母親に促され、新は大きく足を踏み出した。 部屋を借りて道着に着替えた新は、道場に通された。 寸前まで行われていた朝稽古のなごりで、空気がとても熱く感じられた。 道場の中ほどまで入った新は、上座に座っている人物に頭を下げた。 「お久しぶりです、師範」 「ああ」 神谷の父親である師範が、いかつい顔を新に向けた。 「まあ、そこに座りなさい」 「はい。失礼します」 緊張を隠しながら、新は師範の前で正座をした。 「今日は面倒な事をお願いしてしまい、申し訳ありません」 「いや、構わんよ」 答えながら、師範は封書をそっと目の前の畳に置いた。そこには毛筆で一言、「挑戦状」と書かれてあった。 「かえって光栄なくらいだが、本当にいいのかね?父親である私が立会人でも」 「はい、もちろんです」 新は大きく頷いた。 「師範は、そういうひいきは絶対にしない人ですから」 「それは約束する。だがな、新くん。うちのあれは、この一年で腕を上げた。対して君は、ここを辞めてから一年経っている。まともに当たってはかなわんと思うがね」 「……それは、おっしゃる通りです」 一瞬目を伏せた後、新は決意を秘めた表情で再び師範に目を向けた。 「まったく歯が立たないかも知れない。そう分かってはいても、俺は奴と闘いたいんです。そうでもしなきゃ、自分で自分が許せない」 師範が、新の真剣な目を見つめた。 「考え直すつもりはないんだね?」 「はい」 「分かった。君がそこまで言うのなら、私は止めはしない」 師範が、重々しく頷いて見せた。 「それに、なにもかもが劣るわけじゃない。君の身の軽さと集中力は、奴に勝るとも劣らないはずだ」 「身の軽さと、集中力……」 「自分の利点を頭に入れて闘いなさい。そうすれば、君にもチャンスは必ず来るはずだ」 「はい。貴重なお言葉、ありがとうございます」 新は深々と頭を下げた。 「ところでな」 身を乗り出した師範が、新にこっそりと声を掛けて来た。 「これは個人的に知りたんだが。なんで君らが勝負しなきゃならんのだ。うちの馬鹿息子が何かしたのか?」 「いや、何をしたとかされたとか、そういう問題じゃなく……」 困ったように俯いた新が、やがてきっぱりと顔を上げた。 「あえて理由を挙げるとしたら、『男の意地とある人を掛けての勝負』ってところでしょうか」 「ある人……」 呟いて、師範がそっと目を逸らした。 「なるほど。それはまあ、大事なテーマかも知れないな」 ふと、廊下からどすどすという大きな足音が響いて来た。 「新、待たせたな」 道着を着込んだ神谷が、硬い表情で現れた。 「おう、待ってたぞ、神谷」 腹に力を込めて、新は立ち上がった。 道場の真中で、二人は睨み合った。 師範の号令によって、二人は同時に床を蹴った。 神谷が大きく左足を踏み出し、それを軸として回し蹴りを放った。新は側転によってそれをかわした。 新の着地点を読んだ神谷がするどく踏み込み、拳を突いた。すんでのところで体をひねった新は、そのまま大きく後ろに跳び、音も立てずに着地した。 拳を戻しながら、神谷が新を睨みつけた。 「おまえ、やる気あんのか?」 「あるに決まってんだろう」 涼しい顔をしている新に向かって、神谷が声を荒げた。 「じゃ、なんで避けるんだよ。組まなきゃ勝負にならんだろうが!」 「まあそういうな。これも一つの作戦だ」 「逃げるのに何か意味があるのか?」 「ああ、大ありだ。俺が逃げる理由を知りたいか、神谷?」 新の思わせぶりな言葉を聞いて、神谷が真剣な表情を浮かべた。 「……知りたい」 小さな声で答えた神谷に、新がにっこりと微笑んで見せた。 「教えてやらない。どうしても知りたきゃ、俺を捕まえてみろ」 「……てめぇ」 うなるように呟いた神谷が、新に飛び掛った。 「絶対許さねぇからな!」 ぎりぎりのところでかわしながら、新が大声で答えた。 「うるせぇ!やれるもんならやってみろ!」 いつまでも繰り返される二人の動きを見ていた師範が、ぽりぽりと頭をかいた。 「二つの利点をそういう風に生かすとは、なかなか考えたな。しかしこの勝負、長くかかりそうだ」 おもむろに立ち上がった師範が、廊下に半身を乗り出し、奥に声を掛けた。 「おーい、母さん。お茶を用意してくれ」 師範の行動をよそに、二人の闘いは熱く続いていた。 夢の中で、沙知は答えを見つけたような気がした。 手にしたその答えを確認しようとした瞬間に、頭の中に電話の着信音が響いた。 「……んー」 うっすらと目を開けた沙知は、勉強机の上にある子機が鳴っているのに気がついた。 「……まったく。もう誰もいないっていうの、我が家には。あの人達、仕事し過ぎ」 ぶつぶつと呟きながら、沙知は子機を持ち上げた。 「はい、もしもし」 「あ、沙知?私、香苗」 なにやら慌てたような香苗の声が聞こえて来た。 「あんたの家の前まで来てるの。今すぐ会えない?」 半ばぼんやりとしながら、沙知は頭をかいた。 「えー、今すぐ?なんでまた急に」 「お願い、大事な用なの!」 有無を言わさぬ香苗の言葉を聞いて、沙知はタンスに向かった。 「分かった。すぐに着替えるからもうちょっと待ってて」 着替え終えた沙知がドアを開けると同時に、香苗が飛び込んで来た。その後ろに、気まずそうな顔の一樹が立っていた。 沙知は思わず首を傾げた。 「あんた達、どうして一緒にいるの?」 「そ、そんな事はどうでもいいのよ!」 勢いよく言い切って、香苗が沙知の腕をつかんだ。 「今、新と神谷が二人で会ってるらしいの」 「……なんで?」 「なんでって……。理由は一つしかないでしょ!このままじゃ、喧嘩にだってなりかねないよ」 「喧嘩?」 沙知は血相を変えた。 「どういう事か説明して!」 「私もたった今聞いたばかりなの。一樹と話してたら何かを隠してるっぽくて。それでしつこく追求してみたの」 香苗の言葉を聞いて、沙知は一樹に目を移した。 「どういう事、一樹」 「いや……。本当は秘密にしておきたかったんだけど」 呟いた一樹が、諦めたように沙知に目を向けた。 「昨日、新の家まで行ったんだ。で、話してるうちに、あいつがやろうとしてる事がなんとなく分かったんだよ」 「新は、何をしようとしてるの?」 「たぶん、おまえを掛けての勝負」 「……冗談でしょ」 頭がくらくらしてくるのを感じて、沙知はその場にしゃがみ込んだ。 「新の馬鹿ぁ……。何考えてるのよぉ」 香苗が、沙知の肩に手を置いた。 「沙知。力が抜ける気持ちも分かるけど、座り込んでる場合じゃないでしょ。神谷は空手の師範の息子なのよ」 「師範の……」 呟いた沙知は、とっさに立ち上がった。 「新が危ない!どうしよう、新が怪我しちゃう」 二人の後ろから、一樹が恐る恐る声を掛けた。 「いや、でも新も少しは心得があるから大丈夫じゃねぇの?」 すかさず、香苗が一樹にするどい目を向けた。 「大丈夫じゃなかったらどうするつもりよ。こんな大事な事秘密にしてるなんて」 「……すみません」 一樹が小声で謝った。 沙知は、玄関を出て走り出した。 「私、二人を探して来る」 香苗が沙知の腕をつかんだ。 「探すって、どこを?」 「そんなの分からないよ!」 勢いよく、沙知は振り返った。 「でも、このままじゃいられない。何かしてなきゃ不安で仕方ないんだもん!」 「分かった。私達も一緒に探すから。だから落ち着いて、沙知」 香苗が沙知の顔を覗き込んだ。 「やみくもに探しても見つからないよ。茜も呼んで、手分けして探そう」 「……うん」 落ち着かない表情で、沙知は頷いた。 一樹が、香苗の肩をそっと叩いた。 「あの、映画を見に行く話は……」 「……しばかれたいの、一樹?」 香苗の目を見た一樹が、くるりと背中を向けて走り始めた。 「俺、茜を呼んできまーす」 「一樹、あんた達はそのまま学校を見に行って。二人を見つけたらすぐに連絡しなさいよ!」 「あいよー!」 背中を見せたまま返事をした一樹を確認してから、香苗が沙知に目を戻した。 「沙知、大丈夫?」 「うん、ありがとう。もう平気」 沙知は、小さく深呼吸をした。 「行こう、香苗。絶対に新を見つけなきゃ」 沙知の心配をよそに、新と神谷の勝負は相変わらず続いていた。 二人の闘いの横で、師範が将棋盤を前にして詰め将棋をしていた。 神谷の放った蹴りを新が受け流し、そのまま二人は弾かれたように離れた。 流れる汗を拭いながら、神谷が師範に顔を向けた。 「ちょっと、師範。ちゃんと見てらんないんですか、あなたは」 「心配するな、ちゃんと見てるから」 ぴしっと駒を進めながら、師範が答えた。 「今までに、おまえの突きが五回、蹴りが八回。新くんの突きが三回、蹴りが一回。それだけの技が決まっておる」 「失礼ですが、師範」 肩で息をしながら、新が口を挟んだ。 「俺の突きは、まだ二回しか決まってません」 「……まあ、そんなに変わらんだろう」 師範の答えを聞いて、神谷がぼそっと呟いた。 「おめぇは適当過ぎるんだよ、くそ親父」 師範がきりっと神谷に目を向けた。 「何か言ったか?」 「いえ、何も言ってません!行くぞ、新!」 「よっしゃ来い!」 再び、二人が動き始めた。 首をこきこきと鳴らしながら、師範がため息をついた。 「どうも詰め将棋は性に合わん。つまらんなぁ」 神谷の母親が、道場に顔を出した。 「師範。近藤先生がお見えですけど、お通ししてもいいのかしら?」 「おお、グッドタイミング。上がって頂きなさい」 師範が嬉しそうに返事をした。 やがて、近藤がのっそりと現れた。 「やあどうも、神谷さん」 軽く頭を下げながら、近藤が師範の前に座った。 「予定よりも早く仕事に片がついたもので、一局お付き合い頂こうかと思いお寄りしたんですが」 近藤が、新と神谷に目を走らせた。 「どうやらお取り込み中のようですなぁ」 「いや、構いません。まだ私の出番ではないのでね」 「……そうですか。ではまあ、一局」 「ぜひお願いします」 将棋盤を挟んで座り直した二人に目を走らせ、神谷がどなった。 「ふざけないで下さいよ、師範!あんた立会い人だろ?」 「じゃかぁしいわい!」 師範が厳しい目を向けた。 「おまえは気が散り過ぎる。もっと勝負に集中せんか!」 将棋盤に目を戻しながら、師範が呟いた。 「さて、今日こそ先生に勝たねばな。三勝二一敗の成績じゃ、あまりにも情けない」 「失礼ですが、神谷さん」 近藤が口を挟んだ。 「私はまだ、二敗しかしておりません」 「……まあ、そんなに変わらんでしょう」 「……そうですな」 近藤が、低い声で答えた。 師範と近藤の行動をよそに、二人の戦いはまだ、熱く続いていた。 |