一、雄也 一〇時五〇分
コンビニを背にして、橘雄也(たちばな ゆうや)は上着のポケットに手を入れた。
今買ったばかりの果物ナイフが、こつんと手に当たった。
ふと、目の前に広がる歩道を見つめた。
何度この道を通った事だろう。
コンビニを出てから歩いて一五分。目的地であるアパートにたどり着いた。
ここまで誰ともすれ違わずに済み、雄也はほっとしていた。念のため、黒いトレーナーとジーンズという目立たない格好をしているが、人に会わないに越した事はない。
ふと、雄也の耳にパトカーのサイレンが入った。とたんに体中から汗が吹き出す。
身をすくめながら耳を澄ましていると、サイレンは次第に小さくなり、やがて消えた。雄也は小さく息を吐いた。
ナイフの柄をしっかりと握り締める。ポケットからゆっくりと取り出し、刃の部分に被せてあるビニールの覆いを外した。
目の高さまで持ち上げ、眺めてみる。気が変わっていないか自分に訊いてみた。
大丈夫だ。手が少し震えているが、決心は変わっていない。
ナイフを持った右手を体の後ろに隠し、雄也はアパートの階段を音もなく昇った。
昇り切ってから二つ目の部屋。
この中に、雄也の親友である水野康介(みずの こうすけ)が住んでいる。いや、親友だったと言った方がいいかも知れない。
今ではもう、雄也にとって康介は憎しみの対象でしかなかった。
空いている左手でノックをする。一〇秒ほどでドアが開いた。
笑顔を見せる康介の目の前に、雄也はゆっくりと右手を差し出した。
雄也の手にあるナイフを見ても、康介の笑顔は消えなかった。
その笑顔を、雄也は許せないと思った。
大きく一歩、雄也は足を踏み出した。
手の中にあるナイフが、康介の腹部に突き刺さった。康介のセーターがみるみるうちにどす黒い赤に染まるのを、雄也は何故か不思議な気持ちで眺めていた。
康介が、雄也の顔から自分の腹部に目を移した。その動きを見て、雄也は反射的にナイフを抜いた。
もう一度顔を上げた康介の目が、雄也を捉えた。何が起こっているのか分かっていない目だった。
康介の体が前のめりに倒れてきた。雄也は後ずさりながらそれを避け、初めて我に帰った。
手にあるナイフと崩れ落ちた康介の体を見比べたとたんに、自分のした事が分かって血の気が引いた。慌てて手にあるナイフにビニールを被せ、再びポケットにしまった。
康介の足をつかんで部屋に引き上げ、体をあお向けにした。まだ息がある。このまま放置したら、やはり命はないのだろうか。
心に浮かぶ何かを振り切り、雄也は歩き出そうとした。
突然強く足をつかまれ、雄也の体が凍りついた。見下ろした雄也の目に、康介の顔が飛び込んで来た。
静かな表情だった。助けを求めるでも恨んでいるでもない、康介の目。
一瞬その目に吸い込まれそうになり、雄也は大きく頭を振った。
康介の手を振り切り、雄也は血が付かないように気を付けながらドアを閉めた。
床を確認しても血の跡はない。恐らくしばらくは見つからずに済むだろう。
雄也は、階段に向かって足を速めた。
階段の手前まで来た時、いきなり目の前にコンビニの袋をぶら下げた男が現れた。
とたんに、頭の中が真っ白になった。男を突き飛ばすようにして、雄也は一気に階段を駆け下りた。
顔を見られてしまった。いや、大丈夫だ。康介は部屋の中にいる。見つかる事はない。
ドアの外に血の跡もなかった。俺がやった事があの男にばれる心配はない。
だが、もしあの男が康介を訪ねてきた友達だったら?ドアを開けたらすべてを知られてしまう。
そうでなかったとしても、本当にドアの外に血の跡はなかっただろうか?いや、ちゃんと確認した。大丈夫だ。
しかし、今の焦っている目で見た事が信用できるだろうか。見落としていたかも知れない。もし、手に付着した血がドアノブに付いていたとしたら。
雄也の心は、他の誰でもない雄也自身によって追い詰められていた。
階段を下りたあとも、雄也は走り続けた。
赤信号を無視して横断歩道を渡る。ふと、道端に止まっているパトカーが目に入った。
雄也は思わず立ち尽くした。さっきサイレンを鳴らしていたのは、このパトカーに違いない。
運転席にいた警官と、目が合った気がした。
警官が車を降りようとしている。後ずさりしながら辺りを見渡した雄也は、背後に見つけた小さな裏道に走り込んだ。
自分の背中が気になる。誰かの視線が突き刺さっている様に感じた。
選んだ道は行き止まりだった。流れる汗を拭いながら、雄也は後ろを振り返った。
誰もいない。
だが、すでに自分が追われている身ではないと確信する事は出来なかった。
目の前にドアがある。雄也には、他に残された道がなかった。
ドアを開けて中に入り、しっかりと鍵を掛けた。振り返ると狭い階段がある。その脇に、さらに小さなドアがあった。
雄也はそのドアを開け、勢いよく飛び込んだ。
急に視界が明るくなった。
そこは、何かの店のようだった。
きれいな店内の様子に、雄也は一瞬戸惑った。
辺りを見渡すと、細長い店内の真中にレジがあり、女が一人立っていた。
少し離れたところに女の子がおり、商品を手に取って遊んでいる。
ここに、人質がいる。
女が振り返った。雄也はとっさに、ポケットからナイフを取り出して女に見せつけた。
「動くな、おとなしくしろ」
ドラマでよく聞くセリフだ。頭の端で、雄也は思った。
女は身動き一つしない。何が起こっているか分かっていないようだった。
今がチャンスだ。
女に向かって、雄也は一歩踏み出した。
「柚香君、逃げろ!」
突然、男の声が聞こえた。
顔を目掛けて飛んで来た何かを、雄也はかろうじて振り払う事ができた。
気が付かなかったが、誰かもう一人いるらしい。
慌てて体勢を整え、女を目で探した。
女がすでにレジを抜け、正面の入り口に向けて走り出していた。雄也は小さく舌打ちをした。
女を追い掛けようと走り出した雄也の目に、女の子の姿が飛び込んだ。表情のない目で雄也を見ている。
雄也は足を止め、目標を変えた。
それと同時に、女の子に気が付いた女が走り出していた。
あっちの方が近い。また人質を失うのか。
焦る気持ちを押さえながら、雄也は全速力で商品の並んでいる棚の間をすり抜けた。
雄也より早く辿り着いた女が、女の子を抱えた。だが、女の子は怯えたように棚の足をつかんで抵抗している。チャンスだ。
雄也が辿り着く一瞬先に、女が女の子の手を棚から外した。
ドアに向かって走ろうとした女の足に向かって、雄也は自分の足を大きく伸ばした。
かろうじて足の先に衝撃が走り、女が女の子をかばうように背中を向けて倒れ込んだ。
息を切らしながら、雄也は女にナイフを向けた。
「おとなしくしろ」
自分の声が別の所から聞こえているようだった。
青白い顔をしながらも、女が雄也を睨みつけた。女の子の体を両手で包み込んでかばっている。
女に隙を与えない様にしながら、雄也は周囲を見渡した。
正面の自動ドアの外側にシャッターがある。あれを下ろせば、誰もこの中に入れない。
雄也は女に顔を戻した。
「シャッターを下ろすスイッチはどこだ」
女が返事をしない。目の前にナイフをちらつかせ、雄也は声を荒げた。
「シャッターのスイッチはどこだ!」
唇を噛みながら、女が震える手で壁際にあるスイッチを指差した。
雄也はスイッチに駆け寄った。
スイッチにはスチール製のカバーがついていた。焦って震える手を静めながら、雄也はカバーと格闘した。
ふと気がつくと、自動ドアの外に二人の人影がいるのが見えた。 さっきの声の男だろうか。距離はかなりあるが、こちらに気がつかれたらまずい。
震える手で、カバーの下部に爪を引っ掛け持ち上げた。
やっと取れたカバーを投げ捨て、雄也は何度もスイッチを押した。
じれったいくらいゆっくりと、シャッターが閉まり出した。
遠くにいた男が振り返り、すごい勢いで走り寄って来る。
雄也は思わず、シャッターを両手でつかんで引き下ろした。
シャッターが下り切る寸前に、男の足先がシャッターと地面の間に突っ込まれた。
男の足に遮られ、シャッターの動きが止まった。
全力で何度も、雄也は足先を蹴りつけた。じりじりと足先が後退し、そして見えなくなった。
シャッターが閉まりきる、ガチャンという音が店内に響いた。
息を切らしながら、雄也は店内を振り返った。
いつの間にか立ち上がっていた女が、裏口に向かって走り出していた。
「動くな!」
近くにある棚に駆け寄り、雄也はスチール製のブックスタンドを手にした。
雄也が投げつけたブックスタンドは、激しい音を立てて女の前方の壁に当たった。
その場に立ち尽くした女に、雄也はすばやく駆け寄った。
「動くな」
雄也はナイフを女に向けた。
女はもう、逃げようとしなかった。
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