一 樹 く ん の お 正 月 |
三、考え込んでいた一樹は、急に顔を上げた。 「分かった!学校だ」 怒鳴ったと同時に、一樹は走り始めた。 「……学校っすか?」 呟きながら、新が後に続いた。 一〇分ほど走ったところで、二人は懐かしい学校の前に辿り付いた。 閉まりきっている校門には、がっしりとした錠前がつけられている。 一樹の後ろで、新が声を掛けた。 「違うんじゃないの、学校」 「……うそぉ」 呟いた一樹は、はっと気がついたように顔を上げた。 「分かった!あいつ、校門を乗り越えて入って行ったんだよ、そうだそうだ」 すたすたと歩み寄って校門に足を掛けた一樹の肩を、新ががっしりとつかんだ。 「おまえや沙知じゃあるまいし。香苗がそういうタイプに見えるか?」 「ん?」 一瞬考えてから、一樹は校門から足を外した。 「……見えない」 「だろう。別のところを考えろ」 「そんな事言われてもなぁ!」 いきなり、一樹は声を荒げた。 「俺達はまだどこにも行ってないんだよ。ここの他に、どこに思い出があるっつうんだ?」 答えないままでいる新に、一樹は鋭い目を向けた。 「おい、新!おまえ分かってんだろ、あいつがどこにいるか。教えてくれよ!」 勢いよく迫る一樹に向けて、新が冷静な声で答えた。 「俺からそれを聞いて、あいつのところに行って。それで、おまえは平気な顔であいつに会えるのか?」 「……それは」 急に勢いを失って、一樹はその場に座り込んだ。 「……会えない」 「よし、偉い」 新が大きく頷いた。 「そういうところが、おまえのいいところだ」 「そりゃ、どうも」 投げやりに答えながら、一樹は空を見上げた。 「それにしても、あいつ。……どこにいんだよ」 「まあ、おまえには分かりにくいかもなぁ」 新が頭をかいた。 「なんつうか、かなり微妙な女心が絡んでる場所な気がするし」 「じゃ、なんでおまえには分かるんだよ」 「俺は、女心に敏感だから」 「……この、スケベ少年」 小さく呟いてから、一樹は道に目を戻した。 そこに見知った顔を見つけて、一樹は勢いよく立ち上がった。 「ちょっと待った、由紀!」 視線の先にいたクラスメートの由紀(ゆき)が、一樹の姿を見て慌てて走り出した。 「おい、待てって」 追いついた一樹は、がっしりと由紀の腕をつかんだ。 「なんで逃げるんだよ!」 「やだぁ!今日は駄目なんだったら。あんた達の相手してらんないの!」 「そんな冷たい事言わないで、協力してくれよ」 「やだ!駄目ったら駄目!」 依然として逃げようとしながら、由紀が一樹に目を向けた。 「今日は私、勝負デートなの!人の恋愛につき合ってる暇ないんだから」 「あ、……そうなのか」 少し勢いを失って、一樹は由紀の腕を離した。その隙に、由紀がとっとと背を向けた。 「そうなの。じゃ、またね」 「いや、待った!やっぱり待った!」 再び由紀の腕をつかんでから、一樹は深く頭を下げた。 「頼む!五分だけ時間くれ。俺に女心を教えてくれ!」 「……女心?」 振り返った由紀が、頭を下げ続ける一樹を見てため息をついた。 「まったくもう。……五分だけだからね」 一樹の話を聞き終えた由紀が、呆れた表情を浮かべた。 「なぁにやってんだか。あんた達って普通のつき合い出来ないわけ?」 「……すみません」 「大体にして、デートを忘れるだなんて最低。私だったら絶対許さない」 「……申し訳ない」 大人しく俯きながら話を聞いていた一樹は、恐る恐る顔を上げた。 「で、由紀さん。そろそろ女心をお聞かせ頂けるとありがたいんですが」 「あ、そうね。私も時間ないし」 気を取り直したように一樹に目を向けた由紀が、そっと三歩ほど後ろに下がった。 「私からあんたに言ってあげられる言葉はひとつだけ」 更に後ろに下がりながら、由紀が言葉を続けた。 「私、好きな人と初めて行った場所は絶対忘れないと思う。たぶん、香苗もね」 「ああ」 神妙な顔で、一樹が頷いた。 「……で?」 「以上」 「……はい?」 「これ以上言う事なし!んじゃ、私はこれで」 あっという間に、由紀が背中を向けて走り出した。一樹は、その背中を唖然としながら見送った。 少し離れた場所で、由紀がくるりと振り返った。 「デートすっぽかした奴にチャンスくれるなんて、香苗って結構いい奴だと思うよ。大事にしてあげなね」 にっこりと微笑んで、由紀はそのまま走り去って行った。 しばらくして、一樹は新に顔を向けた。 「あの……。今のってヒントになってるのか?」 「非常にいい線ついてると、俺は思う」 新が大きく頷いて見せた。 「あ、そう」 呟いてから、一樹はその場に座り込んだ。 「……なんだよ。なんで俺だけ分かんないんだよ」 「それはこっちが聞きたい」 新の言葉と同時に、腕時計がぴっと鳴った。 時刻は、午後三時半になっていた。 四、開き直ったように、一樹は立ち上がった。 「こうなったら女心を聞きまくってやる!新、茜(あかね)の家はどこだ!」 「おお、そう来たか」 にやりと笑いながら、新が答えた。 「茜なら、今日は神谷(かみや)の家にいるんじゃないか?」 「神谷の家?なんでまた」 「いや……」 頭をかきながら、新が呟いた。 「師範って、ものすごい着物好きなんだよなぁ」 神谷の自宅にて。 着物を着て座っている茜の前で、師範がにこにこと嬉しそうに酒を飲んでいた。 「いい!実にいい!本当に茜ちゃんは可愛いなぁ」 「ありがとうございます」 茜がにっこりと微笑んで見せた。 いらいらとした表情で、神谷が立ち上がった。 「もういいだろ、親父。俺達、外出てくるから」 「なにぃ?」 酒で赤い顔をした師範が、鋭い目を神谷に向けた。 「茜ちゃんを独占しようったってそうはいかんぞ!」 「独占ってなんだよ、独占って!元々こいつは俺の彼女なんだよ。いい加減にしろ、このスケベ親父!」 「なんだと、この馬鹿息子!師範に向かってなんだ、その口のきき方は!」 「うっせぇ!今は道場じゃねぇからいいんだよ」 「そんな事誰が決めた!何時何分何十秒、地球が何回回った時!」 「おまえはガキか!この駄目親父!」 「あんた達、いい加減にしなさい!」 二人を同時にどついた後、神谷の母親が茜に顔を向けた。 「ごめんね、茜ちゃん。お正月からこんなうるさい家に来てもらって」 「いいえ。すごく賑やかで楽しいです」 茜が、母親に向かって笑顔で答えた。 ふいに、玄関先にどったんばったんと足音が響いた。 「すいませーん。こちらに茜、来てますか?」 痛そうに頭をさすっていた神谷が、顔を上げた。 「ん?ありゃ一樹の声か?」 「そうみたいね。どうしたんだろう」 すっと立ち上がって、茜が廊下に出た。 その後を追った神谷が、茜の横に並んだ。 「茜」 「え?」 「悪いな、あんなおっさんの相手させちゃって」 「ううん、本当に楽しいから」 にっこりと笑って、茜が答えた。 その笑顔を見て、神谷がふいに茜の腕を取った。 「……茜」 「なぁに?」 それに答えず、神谷が無言で茜の両肩をつかんだ。 茜が、少し困ったように目を逸らしながら廊下の先を指差した。 「……あの、神谷。ちょっと今は困るんだけど」 「……ん?」 呟いて指を追った神谷が、慌てて茜から離れた。 「……あいつ、本当に手が早い男だな」 「ああいうとこは、親父に似たんじゃねぇの?」 廊下からまっすぐにつながった玄関で、一樹と新が呆れた顔で話し合っていた。 顔を赤らめながら、神谷が二人を睨みつけた。 「なんだよ、おまえら!正月から乗り込んできやがって、嫌がらせか?」 「まあまあ、神谷。落ち着いて」 取り成すように言ってから、茜が二人に笑顔を向けた。 「二人共、明けましておめでとう」 「ああ、おめでとう……って、それどころじゃねぇんだよ、茜!」 一樹は、大慌てで事情を説明した。 話を聞き終えた茜が、一樹を見つめた。 「で、一樹は私に香苗の居場所を教えてほしいの?」 「いや、そうじゃなくて。ただ、俺はヒントがほしいんだ」 「……ヒント」 呟いた茜が、しばらく床に目を向けていた。 やがて目を上げた茜が、静かに微笑んだ。 「香苗ってね、一樹が思ってるより、ずっと女の子らしい子だよ。今日二人で神社に行く事、ずっと前からすごくすごく楽しみにしてたみたい」 「ああ」 神妙な顔で、一樹は頷いた。 「……で?」 「おしまい」 「……はい?」 「私のヒントはこれだけ。後は、自分で考えて」 もう一度にっこりと笑顔を見せてから、茜が二人に背を向けて歩き出した。一樹は、その背中を唖然としながら見送った。 「あ、そうだ」 ふと振り返った茜が、新に目を向けた。 「沙知、大丈夫かなぁ。あの子、ものすごい恐がりでしょ?もう日が暮れ掛けてるし、今ごろ大変なんじゃないの?」 「俺もそれが心配なんだよ」 新が頭をかいた。 そっとため息をついてから、茜が一樹を見つめた。 「一樹、なるべく早く行ってあげてね」 再び背中を向けた茜を見送りながら、一樹は小さく呟いた。 「新……」 「ん?」 「今のも、ヒントになってるのか?」 新が大きく頷いて見せた。 「大変上手なヒントだと、俺は思う」 「あ、そう」 呟いて、一樹は肩を落とした。 新の腕時計がぴぴっと鳴った。 時刻は、午後四時になっていた。 五、神谷の家を出たところで、一樹は座り込んで頭を抱えた。 「どこだ、どこだ、どこだ、どこだ、どこだ」 呟き続ける一樹を見下ろしながら、新が声を掛けた。 「ちょっと頭を整理したらどうだ?」 「整理?」 「ああ。今まで聞いたヒントを整理して、香苗の居場所を考えてみろ」 「……なるほど」 新から目を離して、一樹は地面を見下ろした。 「まず、沙知が言ってた事は訳が分からなかった」 「確かに、あれはヒントとは言いにくいな」 新が頷いた。 「で、由紀は、初めて二人で行った場所は絶対忘れない、と言っていた」 「そうそう」 「で、茜は、今日二人で神社に行く事を香苗がすごく楽しみにしていた、と言っていた」 「その通り」 再び、新が頷いた。 「で、何か思いつかないか?」 「……思いつかない」 「……あ、そう」 新がぽつりと呟いた。 「ああ!俺はどうしてこう鈍いんだよ!」 一樹は再び頭を抱えた。その一樹に向けて、新があっさりと言葉を掛けた。 「確かに、おまえは鈍すぎる」 「……きっつぅ」 悲しげに、一樹は顔を上げた。 「おまえ、傷口に塩をなすりつけやがったな」 その言葉に答えず、新が一樹の前にしゃがみ込んだ。 「あのな、一樹。俺は前々から言いたかったんだけどな」 「……なんだよ」 「このままじゃ、香苗がかわいそうだぞ」 「分かってるよ」 一樹は目を逸らした。 「だから今、必死で探してるんだろ」 「いや、そうじゃなく。例え今ここであいつを見つけたとしても、この先のおまえの心意気次第で絶対に同じ事を繰り返すぞ」 「不吉な事言うなよ」 むっとした顔の一樹を押さえて、新が言葉を続けた。 「いいから聞け。まず俺は、おまえらがまだ二人きりで会った事がないってのに驚いた。おまえらがな、なんかこう、いい雰囲気になってからどのくらい経ってるんだよ」 「……えっと」 一樹は、指折り数え始めた。 「四ヶ月くらいかなぁ」 「くらいかなぁ、じゃねぇよ。四ヶ月間も、おまえは香苗をほったらかしてたんだろう?」 「ほったらかしてたわけじゃねぇけどさ。でも、あいつも俺も部活なんかで忙しかったし」 「俺と沙知はおまえらと同じ条件で、もう何回も遊びに行ってるぞ」 「……ちくしょう、要領のいい奴め」 「おまえが悪すぎるんだよ」 冷たく答えてから、新が更に言葉を続けた。 「で、だ。とりあえず男同士という事で訊いておく。おまえら、どこまで進んだ?」 「……『進んだ?』って。おまえそんな、真っ向から訊かれても」 答えた一樹の顔を、新が真剣な表情で見つめた。 「おまえ、まだ香苗に手ぇ出してねぇだろ」 「……いや、それはだな。やはりあの、色々とこう、心の準備というものが」 口ごもっている一樹から目を逸らしつつ、新が鋭く呟いた。 「おまえ、ちょっとは神谷を見習え」 「……やっぱり、そういう事がなきゃ駄目なわけ?」 「いや、駄目つうかさぁ」 新が、ぽりぽりと頭をかいた。 「そういう事があって、初めて二人は近づくんだよ。それに、お互いの気持ちを確かめる事が出来るわけだし」 心から感心しながら、一樹は新を見上げた。 「おまえって、本当に大人だよなぁ」 「まあな。だてに修羅場くぐってないから」 さらりと答えてから、新が一樹を見下ろした。 「で、まあそういう事を反省した上で。改めて考えてみろ。香苗がどこにいるか」 「あ、そうだ!まずはそれなんだってば」 思い出して、一樹は三たび頭を抱えた。 「えーっと、後は何かヒントなかったっけ?」 さりげなく、新が言葉を挟んだ。 「一旦戻りかけた茜が、振り返って俺になんか言ったよな」 「ああ、そう言えば。確か、沙知が恐がってるだとかなんとか」 言葉を切って、一樹は眉をひそめた。 「……恐がるってなんだよ。何を恐がるってんだ?」 立ち上がりながら、一樹は新に目を向けた。 「おい、沙知が恐がるものって何だ?」 新がすらすらと答えた。 「テスト、高いところ、給食に出てくるとろけないチーズ、時々近藤先生、幽霊」 「……えらい多いな」 呟いてから、一樹は考え始めた。 「とりあえず、今関係ない奴は除外して考えると……、幽霊。……ん、幽霊?」 思わず、一樹は新の腕をつかんだ。 「新、あの神社に墓はあるか?」 「ある。霊園がくっついてるからな」 新の答えを聞き終えたとたん、一樹は走り出した。 「やれやれ、やっと分かったか」 ぽきぽきと首の骨を鳴らしながら、新が呟いた。 「それにしても、女心とはまったく関係ないところから正解に辿りつくところがあいつらしいな」 小さく笑ってから、新が一樹の後を追い始めた。 走り出した新の腕で、時計がぴっと鳴った。 時刻は、午後四時半になっていた。 六、日の暮れかけた神社の前で、階段に座った香苗と沙知は身を寄せ合っていた。 いつもはほとんどジーンズでいる香苗が、この日は珍しくスカートをはいていた。 小さくため息をついた香苗が、沙知の肩を抱いた手をそっと離した。 「沙知、本当にもう帰っていいってば」 「駄目、帰らない」 恐る恐る辺りを見渡しながらも、沙知が頑固に言い張った。 「こんな暗くなった神社に香苗を置いて行くなんて出来ないよ。幽霊が襲って来たらどうするつもり?」 「どうするつもりって言われても……」 香苗が小さく呟いた。 「私は別に、幽霊とか信じてないんだけどなぁ」 香苗の呟きを聞いていなかったらしい沙知が、眉をひそめた。 「それにしても一樹の奴!大切な彼女をこんな目に合わせるなんて、ほんと最低!」 「……大切じゃないのかもね」 香苗がぽつりと呟いた。その言葉を聞いて、沙知が香苗に顔を向けた。 「そんな事ないよ、絶対に!」 「……ん」 小さく答えて、香苗が空に目を向けた。 「もうすぐ分かるよ、あいつの気持ち。五時になった時、あいつがここにいなかったら……」 「香苗……」 言葉を切った香苗を見つめながら、沙知がそっと尋ねた。 「ここにいなかったら、一樹とはもう……?」 「今は、まだ分からない」 香苗が、寂しげな微笑みを浮かべた。 「まだ、考えたくないから」 「……香苗」 目を潤ませて、沙知が香苗の腕をつかんだ。言葉を続けようとした沙知が、ふいに神社の入り口方面に目を向けた。 「ねえ、なんか聞こえない?」 「うん、聞こえる」 香苗が、小さく頷いた。 「なんか、どっすんばったん足音がしてる」 やがて、二人の前に足音の持ち主が現れた。 「香苗!」 入り口に現れた一樹は、香苗を見つけて立ち止まった。 香苗よりも早く、沙知が勢いよく立ち上がった。 「こらぁ、一樹!あんたは待たせ過ぎなの!」 そのまま駆け寄って来た沙知がふいに方向を変え、一樹の後ろに現れた新の胸に飛び込んだ。 「恐かったよー、新!」 「よしよし、よく頑張った。偉い偉い」 ぽんぽんと沙知の頭を叩いてやりながら、新が一樹に目を向けた。 「じゃ、健闘を祈る」 にやりと笑って見せてから、新が沙知の手を引いてその場を離れて行った。 「……余計なプレッシャー掛けやがって」 呟いてから、一樹は香苗に目を戻した。 香苗が、表情なく立ち尽くしていた。 身動きしない二人の間に、午後五時を告げる鐘が鳴り響いた。 その鐘に背を押されるように、一樹は香苗に歩み寄った。 香苗の元にたどり着いてから、一樹は気まずく頭をかいた。 「あ、あの、香苗」 香苗が、無言で顔を上げた。 「本当に悪かった。俺……、俺も楽しみにしてたんだ。だけど、その」 香苗が、無言のままで一樹の言葉を聞いていた。 「今日の事、忘れちまってたけど。だけど俺は、真剣に香苗の事思ってて、その気持ちに嘘はないし。だから、だからその……」 「……もう、いいよ」 香苗が首を振った。 「いや、でも」 「本当に、もういいの」 穏やかな微笑みを浮かべた香苗の目から、ふいに涙が転がり落ちた。 驚いた一樹は、思わずその涙に目を奪われた。 「あ、あの……」 「ありがとう、一樹」 呟いた香苗が、一樹の胸に顔を寄せた。 「来てくれて、ありがとう」 「香苗……」 条件反射的に香苗を抱きしめながら、一樹は呟いた。 一樹の胸の中で、香苗が静かに言葉を続けた。 「今、二人でここにいるってだけで。それだけで、いいから」 「そ、……そうか」 驚きと戸惑いがぐるぐる回っている頭を抱えながら、一樹はなんとか返事をした。 その一樹の顔を見上げながら、香苗が泣笑いの表情を浮かべた。 「ごめん、安心したらなんか涙が出ちゃって。少し、泣いてもいい?」 「あ、ああ」 一樹は大きく頷いた。 やがて、香苗が小さな声ですすり泣き始めた。その穏やかな泣き声を聞きながら、一樹は胸が熱くなるのを感じた。 そうか、これなんだ。 一樹は思った。 俺が香苗を好きになったのは、いつも気が強いこいつがふいに見せる優しさとか弱さを、ものすごく可愛いと感じるからなんだ。 その事に気がついた一樹は、香苗に向かってそっと声を掛けた。 「本当にごめん。今度会う時は、絶対ものすごく楽しませるから」 「分かった。期待してる」 「で、ちゃんと思い出の場所作ろうな」 「うん、そうだね」 静かに顔を上げて、香苗がにっこり微笑んだ。 「じゃあここは、初めて出来た思い出の場所って事になるね」 「……そうか。そうだな」 香苗の笑顔につられるように、一樹は初めて笑顔を浮かべた。 そしてふと、一樹は気がついた。 この状況は、もしかするとものすごいチャンスなのではあるまいか。 もしかしてもしかすると、今この時こそ、俺は手を出すべきなのではないのだろうか。 気がついてしまった一樹は、思わず力を入れて香苗の肩をつかんだ。 「あ……あの、香苗」 「え?」 怪訝な顔で見上げる香苗に向かって、一樹は一心不乱に言葉を探した。 「あの、ほれ、その。……いや、だから俺はだなぁ」 不思議そうな顔をしていた香苗が、ふいに何かに気がついた表情を浮かべた。 やがて少し赤くなりながら、香苗がそっと目を閉じた。 心の中でガッツポーズを決めながら、一樹はそっと、香苗に顔を近づけた。 ふいに、新が境内に飛び込んで来た。 「おい、一樹!」 「うわ、うわ、うわ!」 思わず叫んだ一樹は、香苗の肩から手を離した。香苗がさりげなく、一樹の側からささっと離れた。 「あ……、悪い」 小さく呟いた新に向かって、一樹は噛みつきそうな顔を向けた。 「てめぇ、けしかけてたくせに俺になんの恨みがあって……」 「まあ落ち着いてくれ。邪魔をするつもりはないんだ。ただ、このままここにいてもいいのかな、と思って」 「あ?どういう意味だ?」 依然として眉をひそめている一樹に向かって、新が腕時計を示して見せた。 「いや、もう五時になったし」 「知ってるよ、さっき鐘がなっただろ」 「いや、だからさぁ。今日家を出る時、おまえおばさんに何て言われた?」 「ん、家を出る時?」 呟いて宙を睨んだ一樹の顔は、段々と色をなくしていった。 「……五時の鐘が鳴る前に帰れって言われた」 「だよな」 新がぽつりと呟いた。 心の底から動揺しつつ、一樹は香苗に目を向けた。 「あ、あの、香苗。また電話するから。今日はとりあえず俺、帰るからな」 「あ、うん……」 ぼんやりと頷いた香苗を確認してから、一樹は風のように境内から立ち去った。 その背中を見送ってから、香苗が新を見上げた。 「あの、これってどういう事?」 「ああ、今説明するから。それはともかく」 ぽりぽりと、新が頭をかいた。 「俺、当分の間あいつの家に行かねぇ」 たっぷり三〇分は走って、ようやく一樹は家にたどりついた。 静かに引き戸を開けた一樹は、誰もいない事を確認してほっと息をついた。 ふと、力のこもった手が一樹の肩にばしんと置かれた。 「かーずーきーくん。ずいぶんと遅いお帰りじゃないですこと?」 「あ……」 一瞬固まってから、一樹は強張った笑顔を母親に向けた。 「やあ、お母さま。お出迎えありがとうございます」 とたんに、母親の怒鳴り声が返って来た。 「何、悠長な事言ってんのよ、このうすら息子!あんた、覚悟は出来てるでしょうね。今夜は寝かさないからね!」 「……うそぉ、勘弁して下さいよ、本当に」 泣き出しそうな声で、一樹は小さく呟いた。 そんな一樹のお正月は、まだ始まったばかり。 料亭での特別メニューは、しっかりと三が日いっぱい続くのであった。 完 |